THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

岡潔(1963)『春宵十話』毎日新聞社。

◆概要

【想定読者】

教育者、学生、ほか

 

【執筆動機】

「頭で学問をするものだという一般の観念」(p.15)への危惧

「二十歳前後の若い人に、衝動を抑止する働きが欠けている」(p.17)

 

【主張】

「(学問は)情緒が中心になっているといいたい」(p.15)

「情緒を養う教育はなにより大事に考えねばならないのではないか」(p.16)

 

◆本文抜粋

「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎるほうがいい。」(p.12)

 

「いっぺん覚えたら忘れないという力ではなく、しばらくの間覚えているというずるい力dだが、この力は場合によっては随分大切ではないかと思う。」(pp.23-24)

 

「どの人がしゃべったかが大切なのであって、何をしゃべったかはそれほど大切ではない。」(p.29)

 

「フランスでの数学上の仕事といえば、専攻すべき分野を決めたことだけ」(p.33)

 

「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。」(pp.37-38)

 

「数学の世界で第二次大戦の五、六年前から出てきた傾向は「抽象化」で、内容の細かい点は抜く代わりに一般性を持つのが喜ばれた。それは戦後さらに著しくなっている。風景でいえば冬の野の感じで、からっとしており、雪も降り風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない」(pp.41-42)

 

「(ギリシャ文化の特徴について)それは知性の自主性である。これはまだほとんど日本にははいっていない。文化が入っていないということは、その文化の基調になっている情操がわかっていないということにほかならないが、ぜひこれはとり入れてほしいものだと思う。」(pp.43-44)

 

「理性と理想の差違は、理想の中には住めるが、理性の中には住めないということにある。」(p.46)

 

「(集団行動は人の頭をだめにする)(日教組の団交について)集団的に行動し、しかも怒りの気持ちを含めている。人というものが怒っているときに正常な判断をくだせるかどうか、だれにでもわかるはずだ。」(p.109)

 

「なにもないという状態のところに、お菓子がカンの中にはいっていた。その上に客が来て菓子を食べているという状態があった。だからそのことはお菓子がおいしかったわけです。」(p.165)

 

日本民族は文化を移入して模倣するのがうまいといわれるが、新しい文化にふれて直ちに核心を模倣するのはすぐにはできないことで、どうしてもはじめからあったからすぐに

思い出したのだとしか解釈できない。(中略)こうして、日本人は地球の表面を教えたり教えられたりしながら情緒、情操中心に動き回り、今日ここにいるように思える。だから日本人がひと目みて、あれは自分だとすぐわかるような情操がいろいろな文化の中心に入りこんでいる。そうして日本のものというと、学んでいる途中はむずかしいが、学んでみると何だそんなものか、はじめからそういってくれればよかったのにということになる。本当によいものとはこうしたもので、つまり自分で自分がよくわかるということにつきるのだろう。」(pp.204-205)

 

「フランス留学時代の師、ジュリア先生からは数学にリズムというもの、「しらべ」というものがあることを教わった」(p.225)

 

◆藤原(1981,2016)、情緒についての指摘

「ふと、この砂漠には情緒が欠けている、と思った。(中略)なぜ、私がこの砂漠に対し、何の感動も覚えなかったのか、その時はよく分からなかった。ただ、少しも情緒感がないことにがっかりしただけで、別にそれ以上考えることもあえてしなかった。」(藤原,1981 p.43)

 

「近年、リーダー達の教養や情緒力の痩せ細りは深刻である。(中略)近年の我が国が衆愚政治になり果てた主因もここにある。」(藤原,2016 p.136)

 

「大多数の人々と何らかの点で異なる者がいじめられる傾向にあるらしい。これを日本人特有の集団主義に帰着させることはできない。あらゆるいじめはほぼ世界共通だからだ。(中略)抜本的解決は「人の道」を徹底して教える以外にない。(中略)大人はもう手遅れだが、世界中の子供達にこれら情緒を叩きこむことだ。これは、いじめ撲滅のためだけではない。この世に満ち満ちたありとあらゆる不正や非情や非道の淵源は、大ていこれら情緒の欠如にあるからだ。」(pp.153-155)

 

◆参考文献・引用元

岡潔(1963)『春宵十話』毎日新聞社

藤原正彦(1981)『若き数学者のアメリカ』新潮文庫

藤原正彦(2016)『官憲妄語    グローバル化の憂鬱』新潮文庫

 

◆所感

天才過ぎて感情移入と理解が困難

    ⇒すぐに理解できないのは自然なこと。理解の種は、植えられてから芽が出て育つのに時間がかかる。ゆっくりでよい。理解に終着はないと考えてもいい。

 

潜在意識に対する信頼感(身をまかせる)⇔自己の多面性を使い分ける

    ⇒この相互作用がたくみ

 

著者が情緒に欠けていたから情緒に敏感だった可能性

    自身は必ずしも情緒的でなかったため、情緒を重視

(情緒が自然と備わった人はわざわざ考えない思考/執筆動機を逆算)

⇒【反証】情緒の重視姿勢を理由に情緒が欠如しているとはいえない。

 

【所感】

数式の美しさを直観的に感じた経験は無い。だが近い話としてビュフォンの針を思い出した。「もし床に多数の平行線を引き、そこに針を落すならば、どれかの線と針が交差する確率」はどうなるか、という問いで、答えは1/πとなる。

 

(参考)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%87%9D

 

                        ◆

 

数学者の藤原正彦はビュフォンの針の美しさを次の2点と述べている。

1,円周率πがあらわれる点

2,1/πという答えの簡潔さ

*藤原も「情緒」の重要性を書籍で繰り返し指摘している。

数学者は(感情の無い)数式との論理対話に時間を費やし過ぎている為、情緒への感受性が特別高い人が出てくるのかもしれない。(因果関係は定かでない)

 

                        ◆

 

実際のところ、情緒が日本人特有の感性なのか、エスノセントリズムの延長として語られているのか今の僕には判断できない。(する必要もない。)このまま一生分からなくてもよい状態でいたいが、必要に応じて読み返せる本を知ることができてよかったと思う。