THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学』朝日出版社。

◆概要

【執筆動機】

この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである。自分が考えてきた道がいかなるものであるかを示し、自分が出した答えをいわば一枚の絵として描き、読者の皆さんに判断してもらってその意見を知りたいのである。(p.12)

 

【リサーチクエスチョン】

暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかと言う問い(p.24)

 

【想定読者・主張】

暇と退屈に課題感のある人(退屈の奴隷状態で、この本を手に取らない人にこそ、読んでほしいのかもしれない)

思い煩う必要は無い。(p.338)、贅沢を取り戻す。(p.342)、動物になる(p.350)

 

◆本文抜粋

〇まえがき

〇序章    「好きなこと」とは何か?

【豊かさと不幸の相関】若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。(p.14)

memo. 何を必要(やりがい)とするか    ●生徒指導部教師→ヤンキー    ●心理カウンセラ→精神疾患者    ●伊能忠敬→地図のない世界

 

【暇の搾取】暇を得た人々は、その暇をどう使って良いのかわからない。(中略)そこに資本主義が漬け込む。(中略)今では、むしろ労働者の暇が搾取されている。(p.23)

 

〇第一章    暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

パスカルの分析】人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。賭け事をしたり、戦争をしたり、名誉ある職を求めたりする。(中略)愚かなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているに過ぎないと言うのに、自分が追い求めるものの中に本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。(p.35)

 

パスカルの分析2】退屈する人間は苦しみや負荷を求める、と。(中略)気晴らしを求めてしまう人間とは、苦しみを求める人間のことに他ならない。(p.43)

 

【退屈の対】退屈の反対は快楽ではなく、興奮である(p.54)

美味しんぼハンバーガーの要素」より    *この男、後にハンバーガー屋にな`る

 

〇第二章    暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?

【遊動と定住】遊動生活がもたらす負荷こそは、人間の持つ潜在的能力にとって心地良いものであったはずだ、と。(p.89)

 

〇第三章    暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

【余暇の活用という概念】工場だけでなく、工場の外でも、休暇という形で働かなければならない。これこそが、余暇は資本の外部ではないということの第一の意味である。資本は労働者をうまく活用するために、余暇を活用し始めた。(pp.121-123)

 

〇第四章    暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?

【退屈と消費】消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。ここには暇が入り込む余地は無い。(p.161)

 

【本来性なき疎外】「疎外」概念の起源と言われるルソーの自然状態論とはいかなるものか?それは、人間の本来的な姿を想定することなく人間の疎外状況を描いたものである。一言でいえばそこに現れているのは、本来生なき疎外という概念だ。(pp.179-180)

 

【疎外.ヘーゲルマルクス】自分に固有の物を放棄するプロセスのことをヘーゲルは疎外と呼んだ。(中略)その疎外を乗り越えてこそ高い理想を実現できると言うわけだ。(中略)(マルクスは)彼らが投げたものは彼らのもとに戻ってこない。(と反論した)(p.180)

 

〇第五章    暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?

ハイデガーの退屈形式】一つは、何かによって退屈させられること。もう一つは、何かに際して退屈すること。(p.205)

memo.はっきりとした退屈、工夫された暇つぶし・気晴らし。

例)退屈をしのぐための暇つぶしに忙しい。だから退屈だ。

 

【気晴らしと退屈】退屈と絡み合った気晴らし、気晴らしと絡み合った退屈、退屈させる気晴らし。そうしたものは、何か人間の生の本質を言い当てていると言って良いように思われるのだ。(p.232)

 

ハイデガー退屈第三形式】退屈に耳を傾けることを強制されている。「なんとなく退屈だ」と言う声。(p.236)

 

【退屈と自由】退屈するという事は、自由であるということだ。(中略)退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと(ハイデガーは)言っているのである。(p.243)

 

〇第六章    暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?

【環世界】ハイデガーが見出した人間の「自由」は決して絶対的なものではない。それはあくまでも他の動物に比べて相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力に基づくものだ。とは言え、確かに、この「自由」は人間の退屈の根拠ではある。(p.291)

 

〇第七章    暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?

【仕事の奴隷】周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやると言うより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。(p.305)

 

【第二形態と余裕】人間はおおむね第二形式の構造を生きていると指摘することの重要性がここから出てくる。(中略)考えることの契機となる何かを受け取る余裕がある。

 

【退屈と希望】退屈と言う名のパンドラの箱には確かに希望が残っているのである。(p.335)

 

〇結論

思い煩う必要は無い。(p.338)、贅沢を取り戻す。(p.342)、動物になる(p.350)

 

〇あとがき

ある時に、この自分の悩みを考察の対象にすることが出来るようになった。(中略)ある程度勉強したからだと思う。(中略)勉強というのはなんとすばらしいものであろうか。(p.360)

 

◆参考文献・引用元

國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学朝日出版社

 

◆所感.「退屈の奴隷」は奴隷か

暇や退屈について深く考えずに満足して生活していた人にとって必要性は限定的。「実はね、あなたが忙しく過ごしている時間は、退屈の奴隷状態ですよ。」と意識させる。これはファーストフードを「美味しいな」と食べているシーンで「実はそれ、超体に悪い成分含まれてますよ」と指摘するのに等しい。ただ、この本を手に取るたいていの読者は、最低限は暇で、課題感をもっている可能性が高い気もするので、そこは問題にならないのかもしれない。(そもそも奴隷は「契機を受け取る余裕がない」(p.333)が本書の立場)

 

現時点でなんらかの不満足や課題感のある人には、前進するきっかけをつくるかもしれない。思考を重ねるプロセスは興味深い。なるほど確かになにごとも「楽しむには訓練(教養)が必要」(p.345)である。

 

ただやはり、暇や退屈をつきつめて考えると、楽しめていたものが楽しめなくなってしまうこともあり得る。それを成長ととらえることが出来るかどうかは人による。そこは各位で悩めばよい。本書結論にもあるように「自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わる」(p.339)のだから。

美味しんぼ「鮎のふるさと」より

 

*美味しいと満足していたものを「カス」と言ってしまうパラダイムチェンジ。泣くほど美味しいものを食べた彼は幸福かもしれないし、そうではなくなってしまったのかもしれない。(食を楽しむためには明らかに訓練が必要である。(p.344)より連想)