THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』河出書房新社。

◆概要

【執筆動機】

我々の認識のぎりぎりの根底まで考え詰めてみると(中略)人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した、と言う信念に次第に強く傾いていった。(pp.1-2)

 

【想定読者】

文化人類学者、ほか

 

【主題】

文化の持つ遊びの要素、文化そのものがどれほど遊びの性格を持つか。遊びの概念を文化概念の中に組み入れること。(p.2)

 

【遊びの定義、特徴】(pp.21-31)

1、自由な行為である。

2、仮構の世界、利益を度外視し、純生物世界より一段と高級である。

3、時間的、空間的に限定されている。

4、規則を持つ。それを守る点では真面目で真剣だ。

5、秘密を持ち、ありきたりの世界とは別物である。

 

memo.遊びと...(キーワード)

文化、言葉、民俗学、音楽的意味、愛欲的意味、真面目という言葉と概念、勝つこと、裁判、戦争、知識、詩、継形象化、哲学、芸術

 

◆本文抜粋

【遊びと文化】遊びは文化より古い。なぜなら、文化の概念はどんなに不十分に規定されたにしても、常にそれは人間の共同生活を前提としている。(p.11)

 

【遊びの本質】遊びはすでにその最も単純な形においてすら、純生理的現象以上のもの、もしくは純生理的に規定された心理的反射作用を超えた何ものかである。(中略)遊びの本質をなすべき積極的原理を精神と名づければ、いささか言い過ぎになり、これを本能と名付ければ、何も言わないに等しい。(p.12)

 

遊びは真面目でないもの、と言う代わりに、遊びは真剣でないとでも言おうものならたちまち、この対置は我々を窮地に陥れる。なぜなら、遊びは甚だしばしば真剣であるからだ。(p.18)

 

遊びは全てなによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。(p.21)

 

遊びイコール秩序である。不完全な世界を雑然とした生活の中で遊びは一時的で条件付きの完全さを実現する。遊びが課す秩序は絶対的だ。ほんのちょっとした違反が遊びをダメにしてしまい、その特質を消し去り、つまらないものにしてしまう。(p.26) memo.美的領域

 

プラトンにとっては、この遊びと聖なる行為の同一性は無条件で認められていたことだ。彼は何の躊躇もなく聖なる事物を遊びの範疇のもとで理解している。(p.40)

 

神に捧げられる行為はその側面的ないくつかの特徴によって常に遊びの範疇の中に包括され続けるが、しかし、遊びに属したからといっても神聖さの認識が失われることにはならないはずだ。(p.52)

 

言語学的疑問は別にして、遊びと真面目の対立概念をさらによく観察してみるとこの対立においてニつの言葉は決して対等の価値を持つものではない、ことが明らかになる。遊びは積極的概念だが、真面目は消極的だ。(中略)遊びの概念は真面目の概念よりもより高い次元のものだ。なぜなら、真面目は遊びを示出そうと努めるが、遊びは喜んで真面目を自己の中に抱き込むことができる。(p.82)

 

文化はその根源的段階においては遊びの性格を持ち、遊びの形式と雰囲気の中で活動するのだ。(p.86)

 

徳、名誉、高貴、名声は元から競争、つまり遊びの領域にあった。(p.112)

 

裁判は賭けごと遊びであり、競争レースであり、さらには言葉の勝負である。(p.139)

 

ローマにおいても法廷で反対派を陥れるための手段が合法的なものとして長く認められていた。(中略)ストア派の人々は法廷での弁論から遊びの性格を取り除こうとし、さらに真実と尊厳の厳しい標準にそれを一致させようと努力した。(p.151)

 

謎は原則的に元は聖なる遊びであったと結論をしても差し支えあるまい。つまり、それは遊びと真面目の境目にあり、高度の重要性を持っていながら、しかも、遊びの性格を失うことなく、聖なるものとされていた。(p.189)

 

我々は詩の本質の中に遊びの要素が本来的に備わっているのを見てとったし、また詩的なものが取る形式は全て遊びの構造に甚だ強く結びついていることも明らかにした。だから、この2つの内的結合関係はほとんど分かちがたいものであると言わねばならないし、また、その結びつきの中では遊びにしても詩にしてもそれぞれの言葉が独立の意味を失う恐れさえあるといえる。同じような事は遊びと音楽の関係においてより高度に当てはまる。(p.265)

 

遊びは実際生活の道理の枠外にあり、必要や利益の範囲を超えている、と。(中略)遊びは理性、義務、真実の規範の外でその真価を発揮する。(中略)形式化された宗教的概念がなくても、音楽を楽しむことの中には、美の知覚と聖なる霊感が1つになって流れている。この融合の中に遊びと真面目の対立は解消してしまう。(p.266)

 

一般に文化が真面目になった事は19世紀の現象としてほとんど否定し得ないと思われる。文化はその前の時代の文化よりもはるかに遊ばれる度合いが少なくなった。(p.316)

 

文化現象としての男子の服装の平均化と硬直化とを決して過小評価してはならない、と私は思う。(p.317)

 

ユーモアの死滅こそ、遊びの要素を殺してしまう。(p.340)

 

プラトン)確かに、人間的な物事は大真面目になるには値しないものだ。しかし、なんといっても真面目になるのは必要なことだ。ただし何にも幸福にはならんかね。(p.347)

 

遊び真面目の概念の永遠的堂々巡りの中で精神のめまいを覚える人は、論理的なものの中に見失った支えを倫理的なものの中に再発見する。遊びそのものは道徳的規範の領域の外にある。(中略)遊びそのものは良くも悪くもないのだ。しかし、人が今自らの意思に駆り立てられて行う行為は、一体真面目なことと定められているのか、あるいは遊びとして許されているのか、という決定を迫られるなら、彼に判断の基準を提供するのは他ならぬ彼の道徳的良心だ。(p.349)

 

河合隼雄(1998)より

一般的には、遊びは仕事に対して第二義的に考えられていた。(中略)ホイジンハがホモルーデンスによって主張したことは、遊びの第一義性を明確にしたものとして画期的なことと言うべきである。(p.184)

 

文化というものは、生きることの最低条件から見ると余計なこととも言えるわけだ。しかし、そのような余計なこととしての遊びがあってこそ、文化も生まれるのだから、ホイジンハが遊びはいかなる文化よりもさらに根源的と言うのもうなずける。(pp.184-185)

 

現代は効率の時代なので、遊びも効率よくなどと考え始めると、ホイジンハの述べているような意味での遊びではなくなってくるかもしれない。(p.185)

 

◆参考文献

Johan Huizinga(1938) "Homo Ludens" (里見元一郎 訳(1974)『ホモ・ルーデンス    文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』河出書房新社。)

河合隼雄(1998)『青春の夢と遊び』講談社+α文庫。

 

◆memo

○真面目な側面のある遊び、と「度を超えた」真面目の差異

 

八百長は文化?遊びの範疇?

    →ゲームをつまらなくしているか、そういうもんなのか?プロレス、相撲、ボクシングの差異。(楽しみ方、ノリが違う)

安全な場所からの批判に遊びはあるか

マフィア(暴力団)の徹底排除の是非/寛容さ

 

◆所感(BJ後追記)

熱し易く冷め易い、という現象がある。熱しているときは夢中になって取り組むが、ふとした時に冷めてしまうことで、かつて楽しんだ物事が全然面白く感じなくなることである。飽きるともいう。

 

 

飽きる原因にも色々あるが、「遊びでなくなってしまったため」という理由も考えられる。では遊びとはなんなのか。本書では遊びの特徴を5つあげている。このいずれかの特徴を逸脱してしまうことによって、遊びの要素が無くなったり、薄れたりしてしまうことが引き金となり飽きるのだ。

 

 

では、遊びの特徴はいかにして逸脱されるのだろう。こちらの理由も様々だが、多いのは度を超えた「真面目さ」ではないだろうか。もちろん遊びにも一定の真面目さは必要である。しかし、度を超えた真面目さは遊びそのものを、遊びたり得なくしてしまう。

 

 

河合隼雄(1998)が「現代は効率の時代なので、遊びも効率よくなどと考え始めると、ホイジンハの述べているような意味での遊びではなくなってくるかもしれない。」(p.185)と指摘していることにも注目したい。

 

 

むろん継続すればいいという話でもない。別に嫌ならやめればいい。ただ、取り組み方から少し真面目さを取り除くことで、楽しさ(フローやゾーン)に再び入れるのなら、それもまた一興!ではないだろうか。

 

 

なんにしろ、大抵のことは遊びがベースなのだから、肩に力を入れず(真面目に考えすぎず)にゲーム感覚で楽めばよい。本書のおかげで退屈と感じている作業に遊びの要素を発見することもできるかもしれない。(作業を遊びと再定義!)

 

 

ところで本書をより理解し楽しむためには、もっと教養が必要と感じた。わからない記述が多すぎた。言葉もむずい。こちらもあまり真面目に考えすぎず、楽しんで教養をつけていきたい。(もう少し真面目に、、、と思わなくもないですが。)