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FESTINA LENTE

福澤諭吉(1872)『学問のすゝめ』ちくま新書。

◆概要

【執筆動機】

身分の違いは「その人に学問の力があるかないか」(p.2)によるが、「学問なるものが、実用に縁遠くて、日常生活の間にあわぬ」という理由から、「暇つぶしの学問」として敬遠されている風潮がある。そこで、「日常生活に密接な実学」(p.3)の必要性を区別し、啓蒙すべきと考えた。また、「知恵もなく学問のない人民」(p.11)は哀れで、自分勝手な困り者であるとし、これは減らすべきと考えた。

 

【想定読者】

これからの世代を担う日本国民

 

【主張】

「人学ばざれば智なし、智なきものは愚人なり」(p.2)

「もし日本国民が専制政治を逃れたいならば、今日からすぐさま学問に志して、才能人格を高め、政府と並んで、国民の実力が見劣りしない程度まで向上しなければならぬ」(pp.27-28)

 

◆本文抜粋

〇初編    端書

【分限】他人に迷惑をかけぬよう、その限度内で自分の自由を発揮することを「分限」というのである。そこで、自由とわがままとの相違は、他人に迷惑をかけるか、かけるかにあるわけだ。(p.5)

 

【政府と国民知愚】「無知な人民は、非道な政府に支配される」とあるが、その通りだ。これは政府が非道なのではなく、無知な人民が自分で不幸を招いているのである。(p.12)

 

〇第二編    端書

〇第二編    人は同等なること

【御国恩】いったい御国恩とは、何のことであるか(中略)特に御恩などと言う筋合いは無い。(p.24)

 

【無学文盲】世の中には、無学文盲で、是非善悪のひとかけらもわからず、我が身にできることといえば、飲むと食うと、寝ると起きるとだけと言う困りものが少なくない。それでも、無学のくせによくの皮は張っていて、ぬけぬけと人を騙し、政府の法網をくぐることはうまくて、国法などは何とも思わず、国民の本分になどは顧みもしない。子供だけは盛んに作るが、肝心のその子の教育する方法など考えたこともない。(pp.26-27)

 

〇第三編    国は同等なること

【居候】この国の人間は、初めから主人公と居候との二種類に分かれてしまうわけだ。(中略)「われわれは国の居候だから、命など捨てるのは身分不相応だ」と言って、どんどん逃げてしまうものが多いに違いない。(p.34)

 

〇第三編    一身独立して一国独立すること

【卑屈】恥ずべきことも恥と思わず、言いたいことも言わず、人をさえ見れば、ヘイコラするばかりだ。世にいう「習慣は第二の性格になる」とはこのことで、一旦習慣になると、なかなか改めることはできない。(p.37)

 

売国】独立の精神のないものは、他人の力を利用して、悪事を働くことがある。(p.39)

 

〇第四編    学者の職分を論ず

【学者】「世間の事業は、政府ばかりの任務ではない。学者は学者で民間において活動すべきだ。商人は商人で事業をせねばならぬ。政府も日本の政府ならば、人民も日本の人民である。然らば人民は、政府を恐れず、近づくべきであり、政府を疑わず、親しむべきだ」(p.55)

 

〇第四編    付録

【転職】仮にも自らひとかどの学者と名乗って、天下の問題を論ずるほどの人間に、全然芸なしの無能力者があるはずは無い。身に付けた専門の能力で葉弥位の事は、朝飯前ではないか。(中略)何の取り柄もないくせに、偶然の幸いによって役人となり、いたずらに高級をむさぼって、贅沢の費用にあて、口先だけで天下国家を論じるような手合いは、もとより我々の知己とする資格は無いのである。(p.59)

 

 

 

〇第五編    明治七年一月一日の詞

【強国】今日のこの状況を過去の栄光ある思い出として懐かしむのではなく、なんと明治初年は貧弱な日本だったかと憐れむほどの強固な独立状態にしたいものだ。(p.70)

 

〇第六編    国法の貴きを論ず

【熟議】この問題で真剣に議論しあった我々の精神は、社会の教訓にもなると思うので、ついでながら最後に記しておく。(p.83)

 

〇第七編    国民の職分を論ず

楠木正成/楠公権助論】その行為は、一見たいへん花やかだが、実際に彼らの姿は、あまり社会の役には立っていない。(中略)ただ偶然の主従関係で、主人への義理立てに死を選んだまでのことであろう。(pp.97-98)

 

〇第八編    わが心をもつて他人の身を制すべからず

毒親】世間の親のの中には、子供産んでも、これを教育することを知らぬ者が多い。(中略)家名を汚し、財産をすって、自ら貧乏になったくせに、歳をとって元気が衰え、無一文になるや、これまでの道楽者が一変して頑固親父となり、我が子に孝行を強制するとは、一体どういう了見だろうか。いかなる心臓で、こんな途方もない恥知らずが言えるのか。(p.114)

 

発言小町、ヤフコメ】父はこの収入をあてにし、姑は嫁の心を苦しめ、父母の一存で、子供夫婦の自由を束縛する。父母の言い分は、無理でもごもっともで通るが、子供の言い分は、少しも通らない。ほんとに細君は、まるで餓鬼道に起きたも同然で、立つも座るも、寝るも食うも、一つとしてはわが意のままにはならない。嫁が少しでも舅や姑の機嫌に逆らおうものなら、たちまち不幸者呼ばわりをされる。世間の人もこれを見て、内心年寄りの方が無理とは思いながら、自分に関係があるわけでは無いから、年寄りのほうに形を持って、訳もなく、若夫婦を非難する。(p.115)

 

〇第九編    学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文

【時代】事業を行うには、おのずからやり良い時代と、やりにくい時代とがある。時代が窮屈であれば、いかに有力な人物でも、自分の力を自由に発揮するわけには行かない。(p.127)

 

〇第十編    前編の続き、中津の旧友に贈る

サーセン】原書も読まず、内外のニュースばかり聞きかじり、耳学問だけで役人となる連中(p.132)

 

〇第十一編    名分をもつて偽君子を生ずるの論

【名分と職分】名分とは、うわべだけの名義で、内容の空虚なものだから、上下貴賤など身分差別の名称は全て無意義である。けれどもこのほかに、人間には各自実質的な職分(役目による責任)というものがある。(中略)職分をさえ忠実に守るならば、仮に古臭い名分という名称だけは、残したければ残しておいてもたいして害はあるまい。(p.151)

 

〇第十二編    演説の法を勧むるの説

【演説】本を読み、書を著わし、同学の士と討論し、多数の前で意見を発表しなければならぬ。(p.154)

 

〇第十二編    人の品行は高尚ならざるべからざるの論

【目標】自分より高級なものに目標を向けて、安易に自己満足せぬことである。(中略)酒色に耽らぬのを唯一の自慢にして、それに耽る者を麺と向かって非難したり、かけてかれこれ批判したりする間は、結局程度の低い議論と言わねばならぬ。(pp.157-158)

 

〇第十三編    怨望の人間に害あるを論ず

【怨望】すなわち、ひがみ根性である。(中略)積極的に自分を良くしようと努力するのではなく、他人の有り様を見て、心ひそかに不満を抱き、自分のことは棚に上げて、他人にのみ不当な注文をつける。(中略)他人にマイナスを与えて快感を味わうのである。(p.166)

 

〇第十四編    心事の棚卸し

【慈悲】修身道徳の教えは、時に経済の法則と合致せぬ場合もある。(中略)個人の徳義としては、慈悲の心は大切なことで、賞賛すべきものだ。(p.190)

 

〇第十四編    世話の字の義

【真理】むやみに物事を信じ込ませる社会には、嘘偽りが横行する。これに反して、すべてのことに疑問を持つ社会では、真理が発達する。(p.192)

 

〇第十五編    事物を疑ひて取捨を断ずること

【批判と学問】西洋文明は、もちろん学ぶべきである。(中略)だが、無批判にこれを信じるくらいなら、むしろ頭から信じぬ方がマシであろう。(p.206)

 

〇第十六編    手近く独立を守ること

【酒・ブランド】「一杯の酒は人が飲むが、三杯の酒は人を飲む」と言う諺がある。(中略)いわば品物の力が人間を引っ張ってその品物を求めさせ、人間は品物の支配を受けて、その奴隷となったも同然である。(pp.211-212)

 

〇第十六編    心事と働きと相当すべきの論

【孤独になるな】理想が高くて実行力の乏しい人間は、他人から嫌われて、孤立することがある。(中略)みだりに人を軽蔑すれば、当然相手からも軽蔑される。互いに不満と軽蔑を抱き合えば、結局、あいつは変わり者だとレッテルを貼られて、馬鹿にされ、世間から相手にされぬようになってしまう。(p.219)

 

〇第十七編    人望論

弁舌を学ぶ、顔つきを明るくする、交際を広く求める(pp.227-233)

 

◆参考文献

福澤諭吉(1872)、『学問のすゝめ』(伊藤正雄 訳(1977)『現代語訳    学問のすすめ岩波現代文庫。)

 

◆所感.追記予定

ザ、自己啓発本。色々書かれているが、出版された当時は異色な本だった感じもある。今生きてたら色んな事物をボロクソに言って、炎上しながらも人気を集めてすごいインフルエンサーになってそう。