THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

清水一行(1983)『小説 兜町』角川文庫。

●投機的な男

「おまえは投機的な男だ。だから営業部へ行っても絶対に株をやってはいかん」
藤丸はただひたすら投資信託を売れと言った。(p.23)

 

●農協と個人投資家の差異

「投信は集まるかね」
「相手によりけりですね」
「と言うと」
「農協とか健康保険組合のようなところにはいくらでも金が滞留しています」
「農協を攻めているのか」
「金って、片寄って集まるものだということを知りました。金詰りだの不況だのといって世の中も冴えませんが、実際には金があります。それも農協のようなところに」
個人投資家は?」
「さしあたって相手にしません」

(中略)

お札の一枚一枚に、苦労して儲けてきた過去が刻みこまれているようで、うっかり損をさせられません。そういうのを口説いて、一千万、二千万と出させるのは、労多くして益がすくない。労を嫌うわけではありませんが、そこへいきますとね、農協みたいなところには、意外な金が眠っています。 農業っていうのは、あまり不景気に関係がありませんし、不動産成金の半分は農民でしょう。こういう金はみんな農協へ集まっています。だから集めいいんですよ。しかもこういう資金は、農協役員のハンコ一つでまとまって出るんです」
「なるほど......。 君の言うことはたしかに一理ある。盲点だろうね。そういう盲点をついている点では敬服するが、農協資金の本質は、利潤を追求しようとするものじゃない。だから限界があるぜ」
「どうしてでしょう。損得にあまりこだわらなくて、やりいいですよ」(pp.39-40)

 

●投資誘導

「あんた正気か」
太い巻き舌で、表通りまで聞こえそうだった。山鹿も、相手のボリュームに見あう大声で続けた。
「正気すぎると、きまりきった儲けかたしかできないものです」
「大きなお世話だ」
「話ぐらい聞いてみてもいいでしょう」

「驚いたね。こんなセールスマン初めてだ。なにを売りつけたいんだ」

日立造船です」
「いくらだい。いくらになるの」
「いま、四十円、百円になる」

「うまいこと言って、そんな話が信じられると思うか」

「大穴ですよ」
煮豆の重曹臭い匂いが、部屋のなかに充満していた。家具らしいものはなに一つない。
「やめとこ。不動産のほうがいい。この土地なんか、終戦直後に誰の土地かわからずに住みついたんだ。そしたら地主とかいうのが現われた。毎月六百円の地代をくれてやった。ところがどうだい、或る大きな靴屋が、この土地の権利を一億五千万円で売ってくれってきた。こういう話のほうが、間違いがなくて応えられねえ」

「そういう話、ほかにありませんか」

「え?」
「ただで一億五千万円も儲かる話、もっとありますか」
「あるもんか、あってたまるかい」
「じゃしょうがない。そういう話が、これからもあるっていうんなら、不動産もたしかにいいでしょう。しかしそういう話はもうお終いだ。いままでは、株が悪くて不動産がよかった。これからは、株が一番よくなりますよ」
口説き文句は立派だけど、これからはなんて話、信用できねえな」
「利口な人は、信じます」(pp.90-91)

 

●相場の心理

常識的に考えたら、株が高くなればなるほど、売物が増えてしかるべきだった。株のやりかたは、安く買って高く売ることしかない。株とは安く買って高く売るか、あるいは高く売って安く買う操作が、すべてだと言ってもいいはずだったから、高くなれば売物が出て、安くなれば買物が増えなければならないはずだった。しかし実際には正反対の動きを示めすケースが極て多かった。つまり安くなれば売りたくなり、高くなれば買いたくなる――。いわばそれが相場の心理であった。(p.122)

●相場の大衆化の弊害

相場の大衆化は暴落の被害を大きくし、その傷跡を一層無惨なものにした。(p.132)

 

●認識できる範囲の外側について

「人間の能力には、まだ未開の部分が多い例証です。われわれの脳細胞は、数えきれないの数の細胞で形成されていますが、実際にわれわれの知恵となって開発された細胞の数は、その何分の一かです。科学的な知恵というのは、現在開発された限られた部分にだけたよって、説明されているものに過ぎないのです。地球には、宇宙から数知れない電波がきています。この電波のなかには、ラジオ星雲から発射されている強力な電波がある。光学望遠鏡で、このラジオ星雲をみると、単一の星雲ではなく、衝突しつつある二つの星雲だと言うのです。このことから、物理学者はいろいろな空想をしています。衝突しつつある二つの星雲の一つは、反星雲だと言う。宇宙に反星雲が存在していると思いますか」
「反星雲ってなんです」
山鹿が聞いた。

「反宇宙だよ。宇宙ではないほうの世界、反物質でつくられた世界、それが反星雲」
「と言うと」
大戸もつられた。
「宇宙のなかに、反宇宙はありません。なのに、宇宙のなかで、どうやって反宇宙を実証しますか。物質を通して反物質を証明するなんて、空想でもなければできません。が、それが物理学の分野にあるのです。しかし霊界は宇宙のなかにある。反宇宙の存在を実証しようとするより、霊界の存在を信ずるほうがたやすいはずです」(p.139)

 

●三菱化成には「なにかある」相場

「他言するなよ。あれは会社側のペテンだ。画期的な事業計画があるような噂を一部の人にまいた。会長も噂を吹きこまれた一人だ。 その証拠に、会長自身三菱化成を三十万株買われた。会長は"化成の資金計画にのせられたな"と言っておられた。つまり会社側が持ち株を抜けたんだ。金繰りのためにね。証券界というところはいつもババをつかまされる。資本主義のゴミ捨て場だからな…・・・・・」(p.147)

 

株式投資の大衆化

「元来株というものは、そうすべきではないんだ」
「なんのことです」
「新重工だ。この大推奨には、数えきれないくらいの問題点がある」
「推奨株は、もうずっと前から、どこででもやっていることじゃないですか」
「こんどの場合は、大証券推奨方式の転機をつくるくらいの意義がある」
「というと」
山鹿が盃を置いた。本所側の川岸を行く人が、黒っぽい帯のように、よどみなく流れていた。数えきれないくらいの船がへさきを飾りたて、打上船の周囲を遠巻きに囲み、黒い川面を埋めている。赤い提灯の火が、華やかな夜景の担い手を気取っていた。
「もしこの推奨が成功したら、近い将来、日本は企業家暴力の横行に苦しむぞ」
山鹿はけげんそうな顔をしていた。
「旧財閥が果していた役割の一部分が、大衆に一時転嫁される。しかし、旧財閥というのは力の象徴だった。その執行手段として、持ち株会社的な要素をもっていた。わかるか」
「先生はなにが言いたいんです」
「いったい誰が株主権の監視者なんだ」
「大衆でしょう」
「ばかを言え」

「じゃ銀行がいるじゃないですか」
「天地がひっくりかえっても、銀行が大衆の味方になるなんていうことはない。新重工にしたってそうだ。大戸さんは約二十億円で三千万株の肩替りをした。大戸さんの支払った二十億円を、三菱重工は借入金の返済分として銀行に持っていった。一方大戸さんが新重工に支払った約二十億円の金は、その株を大衆に売ることで調達される。本当に金を出すのは誰かって言ことだ」
「僕にはどうでもいいことです」
「そんなことはない。ラジオ放送までして新重工を推奨しているじゃないか」
「推奨が悪いんですか」
「大衆を、資本調達の吹きだまりにしてはいけないっていうんだ」
そのとき山鹿は猛然と反撥してきた。
「儲かればいいはずです。投資家はみんな儲けたがっている。だから、儲けさせてやればいいじゃないですか」
待ちかまえていたように佐府は微笑を返した。
「そこだ。そこに第二の問題点がある」
再び、球形に激しく火花を四散させ、五色の鮮やかな彩光が夜空に浮かんだ。喚声が隅田川の両岸から湧き起こった。
「証券界の力の過信、これが将来必ず大きな悔恨を残す。新重工の推奨をみていると、零細な投資家を煽りたて、百円の新重工を買った人には、一年後あるいは二年後に、百五十円にしてお返しすると言っているのと同じだからだ。百万円持っていらっしゃい、百五十万円の先付けの小切手を差しあげましょうと呼びかけているんだ。証券市場の持つ流通機構としての本質を、大戸さんはこういうやりかたで破壊しようとしている。無限に買えば無限に上がるという意識ほど危険なものはない。それ以上に恐ろしいのは、株にたいして大衆が、安易な理解を持つことだ。君は知っているはずだ。 株とはそんなものではない」
山鹿は冷えた盃をあけて川面をみつめた。 能面のように動きのない顔からは、反応を汲みとることはできなかった。
「投信を分析していて僕は痛感した。 投信の残存元本は、まもなく一兆円を越すかもしれない。大衆は、儲かるという宣伝につられてヘドがでるくらい株を抱えこむだろう。株主権を行使できない投信と、単体では無力にひとしい大衆株主が群生したとき、僕は証券市場はえらいことになりはしないかと思う。株価の自律作用も株の条件も、みんな圧殺されてしまう。そうなったらどうする」
「先生、あまり神経質にならないで下さい。まだ相場ははじまったばかりですよ。新重工だって、手をつけて二月半じゃないですか。いまからそんなことを気にしていたら、なにもできないでしょう」
「いまだからこそ考えなくちゃならないんだ」(pp.200-202)