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FESTINA LENTE

【大学受験】FESTINA LENTE/浅瀬で溺れない


難関大学ってほんとうに”難関”?>
どれだけ名の知れたFランク大学でも
たいていの大学で入学試験が実施される
そして入試が「難しい」とされている大学は
難関大学とよばれている
とくに、偏差値上位2-3%大学は
旧帝、早慶、医医(医学部医学科)など
最難関あつかいされていたりする

そんな難関大学に合格することは
ほんとうに難しいことだろうか

この文章の結論をたんてきにいう
難関大学を難関たらしめているのは
勉強そのものの難解さというよりむしろ
自身の内側にあるノイズに原因がある
ノイズとは、焦りや見栄や自尊心など
ほんらい勉強とは関係の無い要素をいう
そうしたノイズから自身を開放し
落ち着いた気持ちで勉強を楽しめば
ごく自然と成績も向上するし
結果的に受験にも合格しやすい
あたり前といえば、あたり前の話

あたり前のことができない人が
どうしてそれなりにいるのかについて
私見をまじえて、以下にしるす

 


<いったいなにが難しいのか>
目指す目指さないは好みが分れるにせよ
ひとたび目指すことにしたら
よほどのアクシデントでもないかぎり
ほとんどの人は合格可能だと思う
少なくともいい線まではいく
しかし現実には目指したにもかかわらず
論外のレベルで終わる人も多い
はしにも棒にもかからず
まさにカスりもせずに落ちる人たちが
たくさんいる
なぜか

アタマが悪いから?
受験勉強というコンテンツに魅力がないから?

もちろん、それもあるかもしれない
でもどちらかというと、たいていは
勉強の取り組み方(姿勢)が悪いからだと思う

 


<無意味な背伸び/頑張り>
塾講等経験による観察から
最頻出の「悪い姿勢」を具体的にいうと
自分の実力以上の参考書をやりがち
分不相応な参考書を選んで
分不相応な苦しみを得る

なにかしら難解なことをやった気になるが
実力はまるでつかない
勉強のおもしろさにも気づけない
だって実力に見合っていないのだから
あたりまえの話

でもこれ、本当に多い
おちいる代表的なパターンをふたつ

 

●パターン1 (背伸び)
「難易度高い参考書やってる自分が好き」
これが意外なほど多い
このタイプはぱっと見、向学心のある感じがする
しかしモチベの源泉は勉強では無い
自分スゲー、が原動力
やってる感だけは異様に出ているし
いろいろもの知りな雰囲気は出すが
内実が伴わず成績は悪い
だが自尊心が邪魔をしてしまい
かんたんな参考書には興味をしめさず
けっしてやりたがらない
やってる感のわりにぜんぜん伸びない

 

●パターン2 (頑張り過ぎ)
「苦しくとも頑張る!気合いでのりきる!」
難しい参考書も気合でチャレンジ!
というタイプ
実際に気合いで乗り越える強者もいる
しかしそれはごく少数
勉強は苦しいものという固定概念がある
長続きせずやめる

おおむねこんなような流れで
急いで、焦って、がんばって
うまくいかず、挫折してほうりだす
なにも得ず、なにも成さず

 


<バカは苦しまなくていい>
こんなふうに書くと
「他人をバカにするなんてなにさま?」
と思われるような気がするし
「苦労しても勉強できない人の気持ちが理解できないんでしょうね」
と判断されるような気もする

たしかに、僕はなにもわかっていない
特に人の気持ちは全然わかる気がしない

でも、言いたいのはそういう話ではない
僕は自分を「バカ側の人」とみなしている
いろいろと要領が悪いし
IQも平凡、理解も遅い
素質ベースでいうと並より下にいる
でも(というより「それゆえ」)
勉強は楽しむものと捉えることにした
というよりもむしろ
勉強で苦しむことができるレベルでは到底無い

バカなんだから苦しまなくていい
は僕が自分について思っていることである

 


<勉強で苦しむのは才人の特権>
言い方を変えると
「勉強で苦しめるのは才人」と思っている
「才人は、現時点で答えの無い問いを立て前人未踏の領域を探究したり、昔からある答えのない問いに暫定的な解を生涯かけて見つけようとする人」
「自分にはそんなセンスがない」
「よって苦しむ必要なんてまったくない」
「勉強は”楽しむ”だけでじゅうぶんである」
と、いう考え方だ

 


<苦しさの正体はなにか>
ひるがえり、あたりを見回してみる
勉強で苦しむのは才人、とは言ったものの
現実に、勉強で苦しんでいる人がうじゃうじゃいる
この人たちはいったいなんなのか、という件だ

これは僕の私見であるが
その人たちは勉強自体に苦しんでいない
たいていはそのレベルに達していないのだから

勉強で苦しんでいないというのなら
いったい何に苦しんでいるのか
つきつめて考えてみると
自分自身の判断や自尊心に苦しんでいる
好きでもないことを無理してやっている
分不相応なレベルを無理してやっている
だから苦しい、そういう話ではないか

ではどうすればいいのか
(勿論、やめっちゃってもいいのだが)
勉強を楽しむことを最優先にすればいい
自分のレベルに合った参考書を選べばいい
点数や名声/名誉や外聞など関係なく
勉強の根源的な楽しさ、知らないことを知る喜びに目を向ければいい

しかしこれが出来ない人がおおい
点数を取るための自己流の方法論に固執したり
賢いフリ用の(ハッタリ)参考書を選んだり
他人の何倍も苦労をするが結果が出ない
点数への固執や自尊心が別格に高いのだが
それゆえ点数がとれない

 


<頑張るVSがんばらない>
「才能が無いんだから、努力する・がんばる」ではなく
「才能が無いんだから、せめて楽しもう」と割り切る
この発想に立てば、ずいぶん気が楽になるように思う

別の角度からも考えてみる
たとえば、陸上競技長距離走では
「早くゴールするためには疲れすぎてはいけない」
という原則があるそうだ
疲れてしまっては、はやく走れないためだ
しかし遅い選手ほど序盤に突っ込む 
つまり頑張りすぎて失速する
結果ゴールするのは遅い
急いだ結果、遅くなる 

この例えからも分かるように
才能や実力が無いのにむやみに頑張るということは
むしろゴールからもっとも遠のく行為のように思える
長距離走でも勉強でも(ダイエットでも、なんでも)
●「頑張りすぎる」⇒「挫折/失速する」
    ⇒【結論】「やめる/結果が出ない」
このパターンがおおい一方で
●「頑張らない/楽しむ」⇒「ゆっくり進む」
    ⇒【結論】「自己ベストが出る」
こっちの道は敬遠される

やる気のある人ほど、前者の道を通ろうとして失敗する
「がんばって急いだ結果、苦しかったのにゴールには少しも近づけませんでした」
という道である

 


<苦しむ&自尊心の呪縛>
僕の目から見ると
勉強で結果が出ない人はみんながんばりすぎている
「頑張る」⇒「苦しい」⇒「楽しくない」⇒「結果が出ない」⇒「苦しい」・・・
こんな感じのことをずっとグルグルやっている

基礎をおそろかにしているから応用がいつまでも解けない
基礎の奥深さを知ることも無く
応用の本質的単純さを感じることも無い
はしにも棒にもかからず、受験に落ちる
「自分は頑張っても出来なかったんだ」という劣等感がのこる
たいていは「がんばった時間は決してムダではなかった」などと
「頑張り」を肯定してしまう
そして、また同じような道をたどることになる

「がんばって急いだ結果、苦しかったのにゴールには少しも近づけませんでした」
という道である
実際はほぼなにも身についてはいないが
「苦しいことに耐えた」という「体験」が癖になっていく

こうした癖は受験勉強にとどまらず
仕事や資格試験、スポーツ、ダイエットなど
あらゆる局面において
失敗のパターンとして再現されてしまう

 


<FESTINA LENTE>
FESTINA LENTE
初代ローマ皇帝アウグストゥスの格言で
「ゆっくり急いで」とも訳される
急がば回れ」とは似て非なるものだと僕は捉えており
それゆえ好んでいる
“ゆっくりだから、結果としてはやく目的地に着く”
という「ゆっくりを積極的に肯定する」意図がみえるためだ
ゆっくりは、早い

 


<楽しむことは、早い>
思うに

「たとえ能力が平凡でも、好きなことを好きなように続けてさえいれば、自分が望むと望まざるとにかかわらず、その道に熟達していく。結果的に上位数パーセント程度までなら自動的にたどり着くことが出来る」

ということだと思う

*こうした発想を持つ人はそれほどいない。したがって、この発想が持てた時点で競争優位に立つことができると解釈可能。しかし、そうした【実利】を捉えることは「勉強の楽しさを意識する」ことと真逆の位置関係にある。私心を(ある意味で)すてて、遊ぶような気持ちが大切だと思う。

 


<余談>
上記内容を、かつて塾や家庭教師、学習支援施設などで、おりをみて話すことがあった。色々な話を思いつきでしていたので、どの話がどう作用していたのか、実際のところ定かではない。それでも、この話はわりにヒット率?が高かったように感じる。

 

話をしたのち「なるほど!」と真に納得して成績が爆伸びするのはおよそ8人に1人くらい。我ながら「ハマるとこうも伸びるのか」、、、と他人事のように(じっさい他人事なので)眺めていた。

 

ちなみに、その成績爆伸びをみて、うらやみ「自分も!」と続こうとするヤカラたちが必ずでてくる。そうした発想は、僕に言わせると「残念ながら何も分かっていないな」とつい思いそうになる。気がはやってはいかんよ、という話をしているのに、成績爆伸びという結果に目を奪われては、述べ伝えた教訓が意味をなさないように見えてしまうためだ。

 

ところが、「キミらのその動機、よくないよ」と敢えて言う必要は(経験上)ほとんど無かった。たいてい、自然と勉強を楽しむ流れにシフトする。伝わっているようで伝わっていないこともあるが、伝わっていないようで伝わっていることもある。結局のところ「勉強は元々おもろい」ということであり、別に自分の話が良かったから伸びたとか、そういうことでも無い。

 

「人は思い詰めると、浅瀬(溺れる必要のない場所)で溺れてしまう」ことを時々思い出す必要があるかもしれない。うっかり苦しみそうになった時は「こんな浅瀬では溺れることの方が難しい」と考えるようにしている。浅瀬を深海にするのも、その逆も、気持ちひとつだと思うためだ。

 

合言葉はFESTINA LENTE。