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FESTINA LENTE

【雑談11】楽しさを維持する

苦労は称賛されやすく、楽しさは反感を買いやすい。【雑談8】「苦労して得た石を捨てる」 では「苦労に過分な意味を与えない」考え方を記した。今回は「楽しさを維持する」ことについて「なぜ維持しにくいのか」に焦点をあて所感をまとめる。

 

<基本的な考え方>
大抵のことは、楽しんで続けているうちに勝手に上達する。だから、トップオブトップを目指す特殊な状況を除けば、「楽しいことだけを続ければいい」「嫌になればやめればいい」と考えている。モチベーションの源泉(=何に対して楽しさを見出すか)は多様だが「対象そのものの楽しさ」に注目すると「楽しい」が継続する印象がある。逆にいうと「対象そのものの楽しさ以外は注目しない」という発想を持っている。余計なものを加える必要はない、とも言える。

たとえば、絵を描くのが好きだとしても「賞を取ること」や「芸大に合格すること」のような「絵そのものの楽しさ意外」に注目がシフトすると「楽しさ」が徐々に消えていき、ついにはやめてしまうこともある。こうして、本来持っていた「興味関心」や「強み」が失われてしまうことは残念だと思う。

 

 

<「強み」のとらえ方>
そもそも「強み」とはなんだろう。「周囲と比較して優れていること」としている場合、その強み(とみなしている感覚)は失われやすい。競争環境が段階的に苛烈になるためだ。当初持っていた競争優位性は徐々に棄損される。簡単に勝てていたはずのゲームが、どんどん勝ちにくくなる。負けが増えてくる。楽しくない。得意だという意識も消失する。

こうした過程を経て「楽しさ」を感じる心が失われるケースは珍しくない。むしろよく聞く。このように「競争」という概念の中にある「勝敗」という尺度をモチベーションの源泉とすると、遅かれ早かれ壁に当たる。その壁に苦しみ、耐えて、乗り越えることが美徳という発想もある。だけど僕は(基本的には)そうは考えない。

最初に書いたように、たいていの成果は楽しみながら出せると考えている。「楽しむ=強み」と捉え、その状態を維持できれば勝手に上達する。どちらかというと、苦しむという「コスト」は「成果」を出すのには大きな弊害で、いかに苦労を回避できるかが重要だと思う。(苦しさを「かて」にして前進する人もいるが、僕はそうではないというだけの話。どちらが良い/悪いということではない)

 

 

<兎年    何匹を追うか>
何匹を追おうと、追うことに疲れてやめてしまうと、当然ウサギは得られない。疲れと敗北感が充満し、自己肯定感も下がる。一方で、楽しさがモチベーションの源泉の場合、一兎も追っている意識が無いのに二兎以上を得ることが出来る。成果は勝手についてくるし、楽しかった経験と思い出も残る。

 

 

<処世術としての苦労ポジション>
「楽しく取り組む」ことの弊害もある。人の反感*を買いやすいことだ。反感は「楽しむ=肩身が狭い」という価値観の醸成を助ける。たとえば、勉強は「苦しい」「楽しくない」のが普通で(それでも頑張るのが美徳)というステレオタイプがそうだ。みんなが苦労することを「楽しい」と言いにくい空気感が存在する。

*「楽しいに対する反感」について、@青い人 さんがブログで記載している。以下引用。

 

【アリはキリギリスが羨ましかった】
(略)アリから見ると、自分のやりたいことを素直にやっているキリギリスはワガママな奴に見えます。本当は羨ましくても、自分はそう振る舞えないので腹も立ちやすく(中略)極端な話ですがキリギリスは不幸であって欲しい、と思ってしまう動機があります。自分がやりたくないことを我慢してやっているにも関わらず、それを放棄している人が幸せだったとしたら、自分の行動はいったい何なのか、という話になってしまいます。

(青い人(2022/10/15)『藁を手に旅に出よう』BJブログ  ) 
*青い人さんの個人意見ではなく、本の内容をアウトプットしたものです。

 

また、「苦しんでさえいれば、結果はどうあれ一定評価する」という評価基準も「楽しんで成果を出す」という気分を相当程度害する。「苦労への逃げ」という行動もある。許されるために苦しめばいいという発想で、建設的な結果をもたらすかとは関係なく支持される。こうした「苦労のメリット」は新しい発想を可能にする。つまり「苦しんでいるフリ」をするという処世術だ。楽しい感じはなるべく出さずに「苦しみ頑張っています」をアウトプットするのが「波風立てず評価されて得だよね」という発想だ。

実際、楽しんで成果を出しても評価されにくいこともある。「相応の苦労(=対価)が払われていないとオカシイ」「犠牲がないと褒めたくない」「楽して成果を出すのはズルイ」という心理(妬み/嫉み)のためだ。さらに悪い場合には「出来る人は出来ない人の気持ちわかんないよね」というレッテルリスクまである。

「苦しんでるフリをして、楽しみは隠す」これが合理的な処世術としてあり得る。この方法を採用している人は少なくない気がする。

 

 

<苦労屋さんが得をする>
ところで、苦労を推奨する人のことを僕は「苦労屋さん」と呼んでいる。苦労屋さんは、苦労を強いることをなりわいにしている。基本的に、物事の「楽しさ」を伝えることはほぼ無く「楽しくなくてもいいからやれ。みんな苦労するんだ。苦労がお前を成長させるんだ」という主張をする。苦労屋さんは繁盛しやすい。なぜなら

●苦労を売るのに「工夫」「スキル」は不要
    〇苦労を売るロジックは普遍/便利。それを使うだけでいい。
●クレームが無く、しかし成功時は感謝される
    〇苦労を売っているので「面白くない」というクレームが無い
    〇苦労を乗り越えなかった場合の責任は「買い手」(売り手はリスクなし)
    〇苦労を乗り越えなかった場合「買い手」の自己肯定感が下がる
    〇しかし、苦労を乗り越えると「買い手」は「売り手」に感謝する

このように苦労屋さんは、元手が不要でほとんどリスクがない。「買い手」が失敗しても「売り手」は傷つかない。「努力が足りなかったね」「わたしはやれってすごく言ったよね」のポジションがとれる。総じて苦労の推奨は、人に面白くないことを無理やりさせるのに都合のいいロジックだ。

 

 

<割に合わない楽しさ屋さん>
一方で、楽しさを売る「楽しさ屋さん」は得をすることは少ない。「楽しくない」という感想を持った「買い手」は「売り手」に直接クレームを言う。「楽しいと言っているが、自分は楽しくないぞ」という不平がダイレクトに返ってくる。そのため、楽しさ屋さんには「楽しい」と思わせる「工夫」「スキル」が必要だ。

一方「楽しい」と感じた「買い手」はなんの苦労もなく(楽しんで)成長する。そこがナチュラルであればあるほど「売り手に感謝する」という発想が生まれることはない。一流の「楽しさ屋さん」は買い手の内発的興味を引き出すから、自身は感謝されにくいという構造がある。

もっとも、一流の楽しさ屋さんは、特に感謝されることを求めていないので、「割に合わない」という感想も持たない。その意味においては文頭に書いた「得をすることは少ない」という表現は誤りといえる。

 

 

<まとめ>
●競争(他者への比較優位)を動機とすると、対象の楽しさが失われる
    ○競争させたがる人の存在(悪気はない)
    ○短期的な効果が出るため、競争は正当化されやすい
●楽しんでいると反感を買うこともある
●苦労は評価上メリットを得ることがある
●楽しんで成果を出すと世間体が悪いことがある
    ○「苦労しとけよ」というやっかみ
    ○自分がした苦労は「他人もすべき」という考えの存在
●苦労を強いる指導者が得をしやすいので「苦労屋さん」が増える
●苦労屋さんに教わった人も苦労屋さんになるので苦労屋さんがますます増える
●人は苦労に過分な意味を与えやすい(雑談8) 


以上の要素が関連しあうことで「楽しんで続ける」「勝手に成果が出る」という方法が採用されにくい。しかしだからこそ、自己肯定感を下げている人は、思考の流れを「楽しむこと」へ意識的にシフトすると楽になるかもしれない。

一方、自分が経験した苦労を「他人もすべき」という発想は慎みたい。慎んだとしても「そうなってしまいがち」と留意して行動したい。そのためには、そもそも「苦労を避ける」「楽しさを維持する」が(自分にとっては)大事という所感を再確認した。2023年も楽しい一年にしていきたい。