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FESTINA LENTE

【雑談10】旧友との別れ

2021年12月、幼馴染(A)が自死した。親同士の交友があり、Aとは二歳からの仲だった。小中学生の頃は毎朝一緒に登校した。高校・大学は進学先が別だったので頻度は減少したが、年に数回は会っていた。しかし社会に出てからは会うことが無くなり、直近10年は顔を合わせていなかった。そんな中の訃報である。

 

 

アルコール依存、失職と求職活動の不調が主要因と推察されていた。遺された奥さんとのあいだに子どもはいない。奥さんもフルタイムの定職についており、傍目から見ると思い詰める要素は少ないように感じられた。しかしこの際プレッシャーの大小は問題ではない。結果として、Aは自死を選択した。それが全てだった。

Aは幼少期より聡明で優しく、人懐こいところがあり誰からも好かれる男だった。家庭環境も穏やかで、優しい両親とかわいい妹で構成された「とても仲のいい家族」という印象である。そんなAが自死した、という知らせに対し僕は(とても残念ではあったが)さほど驚かなかった。「そういうこともあり得る」と思えた。Aと会っていない期間を考えれば、いかなる変化も「あり得る」と思うことが出来た。どちらかというと、Aの死そのものよりも、Aと会っていなかった期間の長さにむしろ驚きを覚えた。

 

 

小中学生の頃、僕たちは毎朝一緒に登校しており、たいていは一番乗りで学校に到着した。中学3年生のある日、Aは僕にひとつの提案をした。それは「教室のドアに別の鍵をつけよう」というものだった。教室にはふだん南京錠がかかっており、一番に登校した者が鍵を開けることになっていた。別の鍵をつけることは「誰も教室に入れない」という状況をつくることを意味していた。

僕はAの提案を宇宙一いいアイデアだと思った。アロンアルファで主要なネジや鍵穴をすべて塞ぐなどの工作を徹底したため、その日は教室のドアが開かなかった。(授業は別の教室で行われた)こうした「ちょっとしたいたずら」を僕たちは時々おこなっていたが、検挙されたことは一度もなかった。

そんなことを思い出しながら共に登下校をした道を歩き、Aの実家に弔問した。

 

 

Aの父は僕のことを覚えてくれており、僕とAが映る昔のVHSを「一緒にみよう」とすすめてくれた。おじさんは国立大学の数学科名誉教授で、一日の多くの時間を研究仲間から送られてくる論文の「査読」に費やしているという。穏やかな老教授から発せられる気遣いとしてのユーモアから、亡きAの面影を感じることができた。話の流れの中で、中学生の頃に彼と実行した数々のいたずらについて話すか迷ったが、結局話さないことにした。

 

 

弔問の帰り道、僕はかつて親しかったが疎遠になった同級生Bのことを考えていた。Bは多少人を見下すようなところはあったが、実際とても賢く、上品な言葉を話す小学生だった。理由は定かでないが僕とは仲良くなり、かなりの頻度で一緒に遊んでいた。小学6年生の頃、隣地区の小学校に転校してからは疎遠になっていた。

気分の高まりから、Bの実家に電話をすることにした。「会いたい人には生きているうちに会おう」という所感からだ。電話にはBの父親が出た。そこで意外な事実を知ることになる。曰く「Bは中学卒業後に引きこもり、統合失調症で家の外に出られる状況ではない」ということだった。

「そうとは知らず、突然のお電話失礼しました」と告げて電話を切ろうとしたところ「もしよろしければ、家を訪ねてくれませんか。彼も喜ぶと思います」との誘いを受けた。その後僕は、人というよりもサルに近くなったBと対面することになる。Bは統合失調症に加えカフェインと水、煙草の中毒で状況は年を追うごとに悪化しているという。

Bの父は(かつてのBと同様)上品な話し方をする人だった。Aの父からAの面影を感じたのと同様に、Bの面影をBの父から感じ取ることが出来た。

 

 

Aの自死やBの病状は特別な出来事ではない。結婚や出産、成功や失敗、称賛される人、刑罰を受ける人など、生きていると多くの変化がある。AとBは、それら変化の終着点(あるいはそれに近いもの)が、平均と比較して若干早く訪れた。

Aと閉鎖した教室のドアについて考える。開くことのないドアの内側にはBがいて、誰も入ることの出来ない教室の中をさまよい続けている。それはもはや誰にとっても、どうしようもないことだと感じられた。

鍵を用意した者、鍵をかけた者、アロンアルファでネジを固定した者、教室の内側にBを入れた者、これらは、目的について無自覚な別々の者の手で行なわれている。たいていの不幸(や幸運)は、こうした偶然の連鎖で成立している気がする。だから実際のところ、そのことについて深く考える必要は無い(というより無理)と思う。備忘録として。