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FESTINA LENTE

【雑談9】ゴミ屋敷を整理する

2014年11月、父の死を知ったのは新幹線の車中だった。死因は心筋梗塞。新幹線は京都に向かっていた。2日後の神戸マラソン出場のための移動中である。僕は長い溜息をつき、車窓に流れる景色を眺め「これからすべきこと」について考えた。すると、案外やることは少ないことに気付いた。父は既に死んでいるのであって、それはもはや「どうにかできること」では無いからだ。

親族・役所・葬儀会社に必要な連絡をすることで、死亡に伴う事務手続きは円滑に進んだ。そして葬儀は3日後、つまり神戸マラソンの翌日に行われることとなった。このことは、僕が神戸マラソンに出場しても問題無い日程が組まれたことを意味していた。

 

 

もし仮に父が瀕死の状況だったなら、マラソンには出場せず付き添っていた。しかし既に死んでいるので、出場を妨げる要素は無いと感じられた。亡き父としても「走ってこい」と言いそうだと思った。父の姉は「非常識だ」と出場辞退を命じてきた。一方、彼女(妻)はコーラを片手に出場を支持してくれた。僕はコーラを持っているほうの意見を聞くことにした。このようにして僕は初のフルマラソンに出場し、完走した。

 

 

翌日の葬儀で、父は僕が前日付けていたゼッケンとともに灰になった。しかし、これはイベントの終わりを示すものでは無かった。むしろ始まりの「のろし」が上がったことを僕は明確に意識していた。なにが始まるのか。遺品の整理、である。

「なんだそんなことか」と感じる人もいると思うが、「遺品の整理」はたいへんである。特に、僕の父は「もの」がとにかく多かった。大半は僕にとっては不要物(ゴミ)である。したがって、基本的には捨てればいい。しかしその判断をすべき対象物があまりにも多かった。(そういう意味で、僕にとって実家はゴミ屋敷だった。)僕は一人っ子なうえ、両親は離婚していた。そのため、この面倒を引き受けるのは僕以外にいなかった。回避不可能なイベントだった。

 

 

その当時、職場では連結決算/取締役会資料/海外現法月次の取りまとめをしていた。職務には充実感があり雰囲気のいい職場だったので、退職する予定は無かった。しかしよく考えてみると、僕は仕事に飽きを感じていた。20年後のキャリアを概ねイメージすることができた。沼津という土地にも飽きていた。彼女(妻)との別居婚状態も課題といえば課題だった。

整理すると

●父の遺したゴミを捨てる
●飽きた土地と仕事を変える
●彼女(妻)と同居
●以上を目的に京都に帰る

という気分が高まった。今になって思うと、色々なライフイベントが集中した(させた)時期だったといえる。

 

 

多くのゴミを捨てる過程はたいへんだったが、学びもあった。それは「一度捨てたものは、二度と捨てなくていい」ということだった。トラブルは連続的に発生することがあるし、終わりが見えないこともある。しかしゴミは有限であり、一度捨てたゴミが戻ってくることは無い。少しずつでも、捨てさえすれば確実に前進する。そういう種類の作業だった。

また「ゴミの整理は感情の整理にもつながる」という所感も得た。多くのゴミの中から、忘れ難い思い出の品が出てくることもある。そうした瞬間が徐々に訪れることは、父の死を少しずつ受け入れる正式な手続きのように感じることができた。

 

 

職場からは(ありがたいことに)慰留を多角的な手段で複数回いただいた。退職時期を可能な限り相談に応じたこともあってか、当時の上司や同僚との交流は今も細々と続いている。

「転機」というのは、その渦中にいると分かりにくいものだが、今にして思うと「父の死」に準じて起こった一連の出来事は、様々な点で「転機」が訪れていたことが今ならわかる。そしてこの転機は「いい転機」だった。

ところで、転職の報告をした人の中に「風水」をしている人がいた。その人は「今年は西の方角への移動はやめておいたほうが良い。大きな困難がある。」と僕に忠告した。そのことを彼女(妻)に相談すると、少し考えた末に「東回りで地球を一周して移動したことにしたらいいんじゃない」とコーラを片手に提案した。柔軟な発想である。僕はふたたび、コーラを持っているほうの意見を聞くことにした。