THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

BOOK

 

◆ビジネス・自己啓発

安宅和人 (2010)『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」 』英治出版。

アバタロー(2021)『自己肯定感を上げる OUTPUT読書術』クロスメディア・パブリッシング。

上田正仁(2013)『東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方』ブックマン社 。

草薙龍瞬(2015)『反応しない練習』KADOKAWA。

グレッグ・マキューン(2021)『エフォートレス思考』かんき出版。

ロバート・B・チャルディーニ(2006)『影響力の正体 説得のカラクリを心理学があばく』SB Creative。

渋沢栄一(1916)『論語と算盤』ちくま新書。

石井遼介(2020)『心理的安全性のつくりかた』日本能率協会マネジメントセンター。

細谷功(2014)『具体と抽象』dZERO。

孫武(前5C)『孫子』。

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫。

福澤諭吉(1872)『学問のすゝめ』ちくま新書。

 

◆哲学・思想

マルクス・アウレーリウス(2C)『自省録』岩波書店。

ショーペンハウアー(1851) 『幸福について』光文社古典新訳文庫。

ルキウス・アンナエウス・セネカ(45)『怒りについて他二篇 』岩波文庫。

マイケル・サンデル(2021)『実力も運のうち 能力主義は正義か?』早川書房。

シェリー・ケーガン(2012)『「死」とは何か』文響社。

デカルト(1637)『方法序説』岩波文庫。

國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学』朝日出版社。

鈴木大拙(1960)『禅の思想』岩波文庫。

フリードリヒ・ニーチェ(1883-85)『ツァラトゥストラはこう語った』。

ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』河出書房新社。

 

◆小説

サン・テグジュペリ(1943)『星の王子様』。

 

◆詩歌・エッセイ・文化

岡潔(1963)『春宵十話』毎日新聞社。

谷崎潤一郎(1933)『陰翳礼讃』パイインターナショナル。

ポール・ギャリコ『猫語の教科書』ちくま文庫。

 

 

福澤諭吉(1872)『学問のすゝめ』ちくま新書。

◆概要

【執筆動機】

身分の違いは「その人に学問の力があるかないか」(p.2)によるが、「学問なるものが、実用に縁遠くて、日常生活の間にあわぬ」という理由から、「暇つぶしの学問」として敬遠されている風潮がある。そこで、「日常生活に密接な実学」(p.3)の必要性を区別し、啓蒙すべきと考えた。また、「知恵もなく学問のない人民」(p.11)は哀れで、自分勝手な困り者であるとし、これは減らすべきと考えた。

 

【想定読者】

これからの世代を担う日本国民

 

【主張】

「人学ばざれば智なし、智なきものは愚人なり」(p.2)

「もし日本国民が専制政治を逃れたいならば、今日からすぐさま学問に志して、才能人格を高め、政府と並んで、国民の実力が見劣りしない程度まで向上しなければならぬ」(pp.27-28)

 

◆本文抜粋

〇初編    端書

【分限】他人に迷惑をかけぬよう、その限度内で自分の自由を発揮することを「分限」というのである。そこで、自由とわがままとの相違は、他人に迷惑をかけるか、かけるかにあるわけだ。(p.5)

 

【政府と国民知愚】「無知な人民は、非道な政府に支配される」とあるが、その通りだ。これは政府が非道なのではなく、無知な人民が自分で不幸を招いているのである。(p.12)

 

〇第二編    端書

〇第二編    人は同等なること

【御国恩】いったい御国恩とは、何のことであるか(中略)特に御恩などと言う筋合いは無い。(p.24)

 

【無学文盲】世の中には、無学文盲で、是非善悪のひとかけらもわからず、我が身にできることといえば、飲むと食うと、寝ると起きるとだけと言う困りものが少なくない。それでも、無学のくせによくの皮は張っていて、ぬけぬけと人を騙し、政府の法網をくぐることはうまくて、国法などは何とも思わず、国民の本分になどは顧みもしない。子供だけは盛んに作るが、肝心のその子の教育する方法など考えたこともない。(pp.26-27)

 

〇第三編    国は同等なること

【居候】この国の人間は、初めから主人公と居候との二種類に分かれてしまうわけだ。(中略)「われわれは国の居候だから、命など捨てるのは身分不相応だ」と言って、どんどん逃げてしまうものが多いに違いない。(p.34)

 

〇第三編    一身独立して一国独立すること

【卑屈】恥ずべきことも恥と思わず、言いたいことも言わず、人をさえ見れば、ヘイコラするばかりだ。世にいう「習慣は第二の性格になる」とはこのことで、一旦習慣になると、なかなか改めることはできない。(p.37)

 

売国】独立の精神のないものは、他人の力を利用して、悪事を働くことがある。(p.39)

 

〇第四編    学者の職分を論ず

【学者】「世間の事業は、政府ばかりの任務ではない。学者は学者で民間において活動すべきだ。商人は商人で事業をせねばならぬ。政府も日本の政府ならば、人民も日本の人民である。然らば人民は、政府を恐れず、近づくべきであり、政府を疑わず、親しむべきだ」(p.55)

 

〇第四編    付録

【転職】仮にも自らひとかどの学者と名乗って、天下の問題を論ずるほどの人間に、全然芸なしの無能力者があるはずは無い。身に付けた専門の能力で葉弥位の事は、朝飯前ではないか。(中略)何の取り柄もないくせに、偶然の幸いによって役人となり、いたずらに高級をむさぼって、贅沢の費用にあて、口先だけで天下国家を論じるような手合いは、もとより我々の知己とする資格は無いのである。(p.59)

 

 

 

〇第五編    明治七年一月一日の詞

【強国】今日のこの状況を過去の栄光ある思い出として懐かしむのではなく、なんと明治初年は貧弱な日本だったかと憐れむほどの強固な独立状態にしたいものだ。(p.70)

 

〇第六編    国法の貴きを論ず

【熟議】この問題で真剣に議論しあった我々の精神は、社会の教訓にもなると思うので、ついでながら最後に記しておく。(p.83)

 

〇第七編    国民の職分を論ず

楠木正成/楠公権助論】その行為は、一見たいへん花やかだが、実際に彼らの姿は、あまり社会の役には立っていない。(中略)ただ偶然の主従関係で、主人への義理立てに死を選んだまでのことであろう。(pp.97-98)

 

〇第八編    わが心をもつて他人の身を制すべからず

毒親】世間の親のの中には、子供産んでも、これを教育することを知らぬ者が多い。(中略)家名を汚し、財産をすって、自ら貧乏になったくせに、歳をとって元気が衰え、無一文になるや、これまでの道楽者が一変して頑固親父となり、我が子に孝行を強制するとは、一体どういう了見だろうか。いかなる心臓で、こんな途方もない恥知らずが言えるのか。(p.114)

 

発言小町、ヤフコメ】父はこの収入をあてにし、姑は嫁の心を苦しめ、父母の一存で、子供夫婦の自由を束縛する。父母の言い分は、無理でもごもっともで通るが、子供の言い分は、少しも通らない。ほんとに細君は、まるで餓鬼道に起きたも同然で、立つも座るも、寝るも食うも、一つとしてはわが意のままにはならない。嫁が少しでも舅や姑の機嫌に逆らおうものなら、たちまち不幸者呼ばわりをされる。世間の人もこれを見て、内心年寄りの方が無理とは思いながら、自分に関係があるわけでは無いから、年寄りのほうに形を持って、訳もなく、若夫婦を非難する。(p.115)

 

〇第九編    学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文

【時代】事業を行うには、おのずからやり良い時代と、やりにくい時代とがある。時代が窮屈であれば、いかに有力な人物でも、自分の力を自由に発揮するわけには行かない。(p.127)

 

〇第十編    前編の続き、中津の旧友に贈る

サーセン】原書も読まず、内外のニュースばかり聞きかじり、耳学問だけで役人となる連中(p.132)

 

〇第十一編    名分をもつて偽君子を生ずるの論

【名分と職分】名分とは、うわべだけの名義で、内容の空虚なものだから、上下貴賤など身分差別の名称は全て無意義である。けれどもこのほかに、人間には各自実質的な職分(役目による責任)というものがある。(中略)職分をさえ忠実に守るならば、仮に古臭い名分という名称だけは、残したければ残しておいてもたいして害はあるまい。(p.151)

 

〇第十二編    演説の法を勧むるの説

【演説】本を読み、書を著わし、同学の士と討論し、多数の前で意見を発表しなければならぬ。(p.154)

 

〇第十二編    人の品行は高尚ならざるべからざるの論

【目標】自分より高級なものに目標を向けて、安易に自己満足せぬことである。(中略)酒色に耽らぬのを唯一の自慢にして、それに耽る者を麺と向かって非難したり、かけてかれこれ批判したりする間は、結局程度の低い議論と言わねばならぬ。(pp.157-158)

 

〇第十三編    怨望の人間に害あるを論ず

【怨望】すなわち、ひがみ根性である。(中略)積極的に自分を良くしようと努力するのではなく、他人の有り様を見て、心ひそかに不満を抱き、自分のことは棚に上げて、他人にのみ不当な注文をつける。(中略)他人にマイナスを与えて快感を味わうのである。(p.166)

 

〇第十四編    心事の棚卸し

【慈悲】修身道徳の教えは、時に経済の法則と合致せぬ場合もある。(中略)個人の徳義としては、慈悲の心は大切なことで、賞賛すべきものだ。(p.190)

 

〇第十四編    世話の字の義

【真理】むやみに物事を信じ込ませる社会には、嘘偽りが横行する。これに反して、すべてのことに疑問を持つ社会では、真理が発達する。(p.192)

 

〇第十五編    事物を疑ひて取捨を断ずること

【批判と学問】西洋文明は、もちろん学ぶべきである。(中略)だが、無批判にこれを信じるくらいなら、むしろ頭から信じぬ方がマシであろう。(p.206)

 

〇第十六編    手近く独立を守ること

【酒・ブランド】「一杯の酒は人が飲むが、三杯の酒は人を飲む」と言う諺がある。(中略)いわば品物の力が人間を引っ張ってその品物を求めさせ、人間は品物の支配を受けて、その奴隷となったも同然である。(pp.211-212)

 

〇第十六編    心事と働きと相当すべきの論

【孤独になるな】理想が高くて実行力の乏しい人間は、他人から嫌われて、孤立することがある。(中略)みだりに人を軽蔑すれば、当然相手からも軽蔑される。互いに不満と軽蔑を抱き合えば、結局、あいつは変わり者だとレッテルを貼られて、馬鹿にされ、世間から相手にされぬようになってしまう。(p.219)

 

〇第十七編    人望論

弁舌を学ぶ、顔つきを明るくする、交際を広く求める(pp.227-233)

 

◆参考文献

福澤諭吉(1872)、『学問のすゝめ』(伊藤正雄 訳(1977)『現代語訳    学問のすすめ岩波現代文庫。)

 

◆所感.追記予定

ザ、自己啓発本。色々書かれているが、出版された当時は異色な本だった感じもある。今生きてたら色んな事物をボロクソに言って、炎上しながらも人気を集めてすごいインフルエンサーになってそう。

ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』河出書房新社。

◆概要

【執筆動機】

我々の認識のぎりぎりの根底まで考え詰めてみると(中略)人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した、と言う信念に次第に強く傾いていった。(pp.1-2)

 

【想定読者】

文化人類学者、ほか

 

【主題】

文化の持つ遊びの要素、文化そのものがどれほど遊びの性格を持つか。遊びの概念を文化概念の中に組み入れること。(p.2)

 

【遊びの定義、特徴】(pp.21-31)

1、自由な行為である。

2、仮構の世界、利益を度外視し、純生物世界より一段と高級である。

3、時間的、空間的に限定されている。

4、規則を持つ。それを守る点では真面目で真剣だ。

5、秘密を持ち、ありきたりの世界とは別物である。

 

memo.遊びと...(キーワード)

文化、言葉、民俗学、音楽的意味、愛欲的意味、真面目という言葉と概念、勝つこと、裁判、戦争、知識、詩、継形象化、哲学、芸術

 

◆本文抜粋

【遊びと文化】遊びは文化より古い。なぜなら、文化の概念はどんなに不十分に規定されたにしても、常にそれは人間の共同生活を前提としている。(p.11)

 

【遊びの本質】遊びはすでにその最も単純な形においてすら、純生理的現象以上のもの、もしくは純生理的に規定された心理的反射作用を超えた何ものかである。(中略)遊びの本質をなすべき積極的原理を精神と名づければ、いささか言い過ぎになり、これを本能と名付ければ、何も言わないに等しい。(p.12)

 

遊びは真面目でないもの、と言う代わりに、遊びは真剣でないとでも言おうものならたちまち、この対置は我々を窮地に陥れる。なぜなら、遊びは甚だしばしば真剣であるからだ。(p.18)

 

遊びは全てなによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。(p.21)

 

遊びイコール秩序である。不完全な世界を雑然とした生活の中で遊びは一時的で条件付きの完全さを実現する。遊びが課す秩序は絶対的だ。ほんのちょっとした違反が遊びをダメにしてしまい、その特質を消し去り、つまらないものにしてしまう。(p.26) memo.美的領域

 

プラトンにとっては、この遊びと聖なる行為の同一性は無条件で認められていたことだ。彼は何の躊躇もなく聖なる事物を遊びの範疇のもとで理解している。(p.40)

 

神に捧げられる行為はその側面的ないくつかの特徴によって常に遊びの範疇の中に包括され続けるが、しかし、遊びに属したからといっても神聖さの認識が失われることにはならないはずだ。(p.52)

 

言語学的疑問は別にして、遊びと真面目の対立概念をさらによく観察してみるとこの対立においてニつの言葉は決して対等の価値を持つものではない、ことが明らかになる。遊びは積極的概念だが、真面目は消極的だ。(中略)遊びの概念は真面目の概念よりもより高い次元のものだ。なぜなら、真面目は遊びを示出そうと努めるが、遊びは喜んで真面目を自己の中に抱き込むことができる。(p.82)

 

文化はその根源的段階においては遊びの性格を持ち、遊びの形式と雰囲気の中で活動するのだ。(p.86)

 

徳、名誉、高貴、名声は元から競争、つまり遊びの領域にあった。(p.112)

 

裁判は賭けごと遊びであり、競争レースであり、さらには言葉の勝負である。(p.139)

 

ローマにおいても法廷で反対派を陥れるための手段が合法的なものとして長く認められていた。(中略)ストア派の人々は法廷での弁論から遊びの性格を取り除こうとし、さらに真実と尊厳の厳しい標準にそれを一致させようと努力した。(p.151)

 

謎は原則的に元は聖なる遊びであったと結論をしても差し支えあるまい。つまり、それは遊びと真面目の境目にあり、高度の重要性を持っていながら、しかも、遊びの性格を失うことなく、聖なるものとされていた。(p.189)

 

我々は詩の本質の中に遊びの要素が本来的に備わっているのを見てとったし、また詩的なものが取る形式は全て遊びの構造に甚だ強く結びついていることも明らかにした。だから、この2つの内的結合関係はほとんど分かちがたいものであると言わねばならないし、また、その結びつきの中では遊びにしても詩にしてもそれぞれの言葉が独立の意味を失う恐れさえあるといえる。同じような事は遊びと音楽の関係においてより高度に当てはまる。(p.265)

 

遊びは実際生活の道理の枠外にあり、必要や利益の範囲を超えている、と。(中略)遊びは理性、義務、真実の規範の外でその真価を発揮する。(中略)形式化された宗教的概念がなくても、音楽を楽しむことの中には、美の知覚と聖なる霊感が1つになって流れている。この融合の中に遊びと真面目の対立は解消してしまう。(p.266)

 

一般に文化が真面目になった事は19世紀の現象としてほとんど否定し得ないと思われる。文化はその前の時代の文化よりもはるかに遊ばれる度合いが少なくなった。(p.316)

 

文化現象としての男子の服装の平均化と硬直化とを決して過小評価してはならない、と私は思う。(p.317)

 

ユーモアの死滅こそ、遊びの要素を殺してしまう。(p.340)

 

プラトン)確かに、人間的な物事は大真面目になるには値しないものだ。しかし、なんといっても真面目になるのは必要なことだ。ただし何にも幸福にはならんかね。(p.347)

 

遊び真面目の概念の永遠的堂々巡りの中で精神のめまいを覚える人は、論理的なものの中に見失った支えを倫理的なものの中に再発見する。遊びそのものは道徳的規範の領域の外にある。(中略)遊びそのものは良くも悪くもないのだ。しかし、人が今自らの意思に駆り立てられて行う行為は、一体真面目なことと定められているのか、あるいは遊びとして許されているのか、という決定を迫られるなら、彼に判断の基準を提供するのは他ならぬ彼の道徳的良心だ。(p.349)

 

河合隼雄(1998)より

一般的には、遊びは仕事に対して第二義的に考えられていた。(中略)ホイジンハがホモルーデンスによって主張したことは、遊びの第一義性を明確にしたものとして画期的なことと言うべきである。(p.184)

 

文化というものは、生きることの最低条件から見ると余計なこととも言えるわけだ。しかし、そのような余計なこととしての遊びがあってこそ、文化も生まれるのだから、ホイジンハが遊びはいかなる文化よりもさらに根源的と言うのもうなずける。(pp.184-185)

 

現代は効率の時代なので、遊びも効率よくなどと考え始めると、ホイジンハの述べているような意味での遊びではなくなってくるかもしれない。(p.185)

 

◆参考文献

Johan Huizinga(1938) "Homo Ludens" (里見元一郎 訳(1974)『ホモ・ルーデンス    文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』河出書房新社。)

河合隼雄(1998)『青春の夢と遊び』講談社+α文庫。

 

◆memo

○真面目な側面のある遊び、と「度を超えた」真面目の差異

 

八百長は文化?遊びの範疇?

    →ゲームをつまらなくしているか、そういうもんなのか?プロレス、相撲、ボクシングの差異。(楽しみ方、ノリが違う)

安全な場所からの批判に遊びはあるか

マフィア(暴力団)の徹底排除の是非/寛容さ

 

◆所感(BJ後追記)

熱し易く冷め易い、という現象がある。熱しているときは夢中になって取り組むが、ふとした時に冷めてしまうことで、かつて楽しんだ物事が全然面白く感じなくなることである。飽きるともいう。

 

 

飽きる原因にも色々あるが、「遊びでなくなってしまったため」という理由も考えられる。では遊びとはなんなのか。本書では遊びの特徴を5つあげている。このいずれかの特徴を逸脱してしまうことによって、遊びの要素が無くなったり、薄れたりしてしまうことが引き金となり飽きるのだ。

 

 

では、遊びの特徴はいかにして逸脱されるのだろう。こちらの理由も様々だが、多いのは度を超えた「真面目さ」ではないだろうか。もちろん遊びにも一定の真面目さは必要である。しかし、度を超えた真面目さは遊びそのものを、遊びたり得なくしてしまう。

 

 

河合隼雄(1998)が「現代は効率の時代なので、遊びも効率よくなどと考え始めると、ホイジンハの述べているような意味での遊びではなくなってくるかもしれない。」(p.185)と指摘していることにも注目したい。

 

 

むろん継続すればいいという話でもない。別に嫌ならやめればいい。ただ、取り組み方から少し真面目さを取り除くことで、楽しさ(フローやゾーン)に再び入れるのなら、それもまた一興!ではないだろうか。

 

 

なんにしろ、大抵のことは遊びがベースなのだから、肩に力を入れず(真面目に考えすぎず)にゲーム感覚で楽めばよい。本書のおかげで退屈と感じている作業に遊びの要素を発見することもできるかもしれない。(作業を遊びと再定義!)

 

 

ところで本書をより理解し楽しむためには、もっと教養が必要と感じた。わからない記述が多すぎた。言葉もむずい。こちらもあまり真面目に考えすぎず、楽しんで教養をつけていきたい。(もう少し真面目に、、、と思わなくもないですが。)

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫。

◆概要

【執筆動機】

コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれ、自分で飛べない人間はコンピュータに仕事を奪われる(p.15)という危惧

 

【想定読者】

グライダー人間、教育者

 

【主張】

グライダー兼飛行機のような人間となる(p.15)必要がある。

 

◆本文抜粋

【グライダー】グライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは当たり前であろう。(中略)指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。(pp.13-15)

 

【不幸な逆説】入門をしても、すぐに教えるようなことはしない。むしろ、教えるのを拒む。(中略)いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。(pp.17-18)

 

【朝飯前】どんなことでも、朝飯前にすれば、さっさと片付け。朝の頭はそれだけ能率が良い。(p.24)

 

【醗酵】学生で、ただ作品をコツコツ読んでいるだけと言う勉強家がいるが、これではいつまでたっても、テーマはできない。(中略)これをしばらくそっとしておく必要がある。(pp.31-32)

 

【寝させる】我々の多くは、この朝のひとときをほとんど活用しないでいるのではあるまいか。(p.38)

 

【カクテル】優れた学術論文の多くは(中略)人を酔わせながら、独断に陥らない手堅さを持っている。(p.47)

 

【つんどく法】忘れて良いと思いながら、忘れられなかった知見によって、一人ひとりの知的個性は形成される。(p.95)

 

【整理】人間の頭を倉庫として見れば、危険視される忘却だが、工場として能率を良くしようと思えば、どんどん忘れてやらなくてはいけない。(p.112)

 

【時の試錬】思考の整理とは、いかにうまく忘れるか、である。(p.127)

 

【すてる】本をたくさん読んで、ものは知っているが、ただ、それだけ、と言う人間ができるのは、自分の責任において、本当に面白いものと、一時の興味との区分けをする労を惜しむからである。(p.133)

 

【コンピューター】これまでの知的活動の中心は、記憶と再生にあった。(中略)コンピューターは、我々の頭がかなりコンピューター的であったことを思い知らせた。(pp.210,213)

 

◆参考文献

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫

 

◆所感    グライダー/自覚と模倣

真にすぐれた者が発する輝きを目にして、「ああ、これが本物か」と感じることがある。そのたびに、「対して自分は偽物」であり、本書でいう「グライダー人間」だと自覚する。本書読了後の所感は、「自分は飛行機人間ではない」という前提に立つことの重要性だ。これは、努力の放棄や諦めといった大袈裟な話ではなく、事実を受け入れるというシンプルな話である。

 

日々の生活をしているなかで、過分な実績が出ることがある。その過分な実績が過分に評価され、過分な立ち位置を得ることもある。結果として「分不相応な扱い」つまり、「グライダーなのに飛行機あつかいされる」という状況が生まれる。

 

しかし、現実にはグライダー能力はあるが、飛行機能力はまるでなし、という人間がたくさんいることも確かで、しかも、そういう人も翔べるという評価を受けているのである。(p.13)

 

 

グライダーなのに飛行機扱いされるのはたいへんなことだ。誤魔化し切るラインを見誤ると危険だし、「あれ、僕って実は飛行機?」と錯覚することはもっと危険である。

 

知的、知的と言っていれば、翔んでいるいるように錯覚する。(p.14)

 

「場」と「タイミング」が整っていると、飛行機のふりをすることができる。飛行機に近い軌道で飛ぶことができるし、部分的には飛行機よりも飛行機らしく飛んでいるように見えることもあるかもしれない。けれども、基盤はあくまでもグライダーである。そこの自覚が欠けていると、危ない状況に陥る。著者も飛行機の危なさは指摘している。

 

グライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは当たり前であろう。(p.12)

 

他方で「猿もおだてれば、、、」というように、愁傷な自覚などせずに調子に乗った方がうまくいくこともある。そうした方法もまったく否定しないし、むしろ素晴らしいと思う。何回か墜落したところで致命傷を負うことなど、実際のところほとんどない。

 

グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにも行かない。(中略)この本では、グライダー兼飛行機のような人間となるには、どういうことを心掛ければよいかを考えたい。(p.15)

 

「グライダー兼飛行機/のような」と「グライダー兼/飛行機のような」のどちらを採用するにせよ、高く、楽しく飛べる方法を模索していきたい。

フリードリヒ・ニーチェ(1883-85)『ツァラトゥストラはこう語った』。

◆概要

【執筆動機】

わたしも自らの知恵に飽きた。(中略)贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧弱たちが再びおのれの豊かさに、気づいて喜ぶに至るまで。(p.14)

 

【想定読者】

悩んでいる賢人

万人のための、しかも誰のためでもない、一冊の書(氷上英廣訳、誰でも読めるが、誰にも読めない書物)

 

【超人】

わたしは諸君に超人を教える。(p.18)

すべての神々は死んだ。今われらは、超人が生まれることを願う。(p.133)

 

◆本文抜粋

彼らに何も与えるな。それよりも、彼らが背負っているものを持ってやって、一緒に背負ってやるが良い。それが彼らにとって何よりの親切だ。もっとも、君がそれを望むのならば、だ。それでも与えたいと言うのなら、施しとしてだけで、それ以上は与えるな。しかも、彼らにまず物乞いをさせてからだ(p.16)

 

かつては、魂が肉体を軽蔑の眼差しで見ていた。当時は、このような軽蔑こそが、至高のものとされていた。魂は肉体を、痩せさらばえて、醜く、飢えているものにしようとした。そうすれば、魂は肉体から、そして大地から、うまく逃げおおせると思い込んでいた。(p.19)

 

最も軽蔑すべき人間の時代が来る。もはや自らを軽蔑することができない人間の時代が。(p.26)

 

創造するものは道連れを求める、亡骸ではなく、畜群でも信者でもなく。創造するものはともに創造するものを求める、新たな価値を新たな石版に刻む者たちを。(中略)ツァラトゥストラは共に創造するものを求める。共に収穫し、共に祝うものを求める。(p.36)

 

私は君たちの道を行かない。肉体を軽蔑する者たちよ。私にとって、諸君は超人へと架かる橋ではないのだ。(p.55)

 

諸君の徳のあいだの嫉妬と不信と誹謗は避けられない。(中略)人間とは、乗り越えられるべき何かだ。だからこそ自らの徳を愛さなくてはならない。それらのと徳は、君を破滅させるだろうから。(p.59)

 

山の中で最短の道は、山頂から山頂へ飛ぶ道だ。(p.64)

 

本当に偉大なのは、創造することだ。だが、大衆はほとんどこれを理解しない。(中略)役者にも精神はある。だがその精神には良心がほとんどない。つねに彼が信じるもの、それはもっとも多くの人々を信じさせるためのものだ、、、彼自身を信じさせるものである。(pp.86-87)

 

認識を志す者が、真理の水に入るのを嫌うのは、その真理が汚れている時ではない。その真理が浅い時だ。(p.92)

 

君たちの隣人愛は、君たち自身をうまく愛することができていないということだと。(p.102)

 

君たちに敵があるなら、その悪に対して善で報いるな。それは敵を恥させることになるから。それよりも、敵が諸君に何か良いことをしてくれたのだと、証し立てて見せよ。(p.115)

 

死ぬべき時に死ね。(p.121)

神はひとつの憶測だ。(p.142)

すべての創造者は苛酷である。(p.151)

 

私を捨て、自らを見出せ。そして君たちが皆、私のことなど知らぬと言うようになったときに、私は諸君のところに帰ってくる。(中略)今とは違った愛で、諸君を愛するだろう。(p.132)

 

犬が狼を憎むように民衆が憎むものがある。自由な精神だ。束縛の敵となるもの、崇拝を拒むもの、森に棲む者だ。彼らをその隠れ家から狩り出すことが、民衆がいう正義感だ。(p.173)

 

君たちが打ち立てた様々な価値から育ってくるのは、いっそう強い暴力と新しい克服だ。(中略)最高の悪は最高の善の一部だ。そして最高の善とは、創造的であることだ。(p.198)

 

学者は監視しあっている。お互いをあまり信頼していない。(中略)なぜなら、人間は平等ではないからだ。公正はそう語る。私が欲することを、彼らが欲する事は許されていない。(pp.216-217)

 

君は、偉大なるものへと向かう君の道を行く。君の後にもう道はないと言うことが、君の最高の勇気の源とならねばならない。(中略)もっとも高いものは、もっとも深いものからその高みに達さねばならない。(pp.262.264)

 

彼がかつて何かを証明したことがあるとでも言うのか。彼は証明は苦手で、信じてもらうことが重要なのだ。そうだ、そうだ。信じれば幸福になるが、信じてもらっても幸福になる。老人とはそういうものさ。我々だってそうだ。(p.313)

 

神々はいる。だが唯一の神などいない。それこそが神的なことではないか。(p.314)

 

善人は決して真理を語らない。このような仕方で善良である事は、精神にとって病である。(p.344)

 

善人たちは、創造することができないのだから。彼らは常に終わりの始まりだ。新しい価値を新しい石板に書きつける者を、彼らは十字架にかける。おのれのために未来を犠牲にする。人間の未来すべてを十字架にかけるのだ。善人たち、彼らは常に終わりの始まりだった。(pp.365-366)

 

あなたは、ついに疲れてきたのか。向こうは夕焼けて、羊たちが群れている。羊飼いたちの笛の音を聴きながら眠るのも悪くあるまい。(p.389)

 

だが、私もまた預言者なのだ。(p.414)

 

私は知において良心的であろうとするものです。(中略)多くのことを生半可に知るよりは、何も知らない方が良いではありませんか。他人の判断に従って賢者でいるよりは、自らの力のみ頼りにする阿呆の方が良い。私は底の底まで行ってやろうと思うのです。(pp.424-425)

 

なたはもはや神を信じない、だがそれはあなたの敬虔さ自体のなせる技ではないか。(p.446)

 

昨日の朝、この上に座っていた。ここへ預言者がやってきた。(p.562)

 

◆吉澤伝三郎(1967)より

ハイデガーの指摘

この書が述べるところは、各人に、万人に向けられている。しかし、何人も、まさにあるがままの自分である限り、つまりあらかじめ、そして同時に変化しない限り、誠にこの書を読む権利を決して持たない。すなわち、この書は、まさにあるがままの私たち万人のうちの何人のための書でもないのである。万人のための、そして何人の人のためのものでもない一冊の書、したがって、決して直接的に読まれることのできない、また許されない書なのである。(p.12)

 

実存哲学は第一次大戦期の危機意識を基盤として成立した。現代の危機を、現代の現実的状況へ沈潜することを通じて超克しようとするところに、総じて実存哲学の基本的姿勢がある。その意味で、実存哲学は一つの徹底的な現実主義の哲学である。しかも、現実に対して否定的な姿勢をとるところに、実存哲学における現実主義の特性がある。(p.156)

 

著作における永遠回帰思想の提示の仕方は、要するに実存論的、いや実存的ですらあるのである。すなわち、ツァラトゥストラ自身がまずこの思想を告知シュールものにまで成熟することが先決問題であると言う立場が貫かれているのである。(p.163)

 

 

 

◆参考文献

Friedrich Wilhelm Nietzsche(1883-85) "Also sprach Zarathustra" (佐々木中 訳(2015)『ツァラトゥストラはこう語った河出書房新社。)

吉澤伝三郎(1967)『ツァラトゥストラ入門』塙新書

 

◆所感

初読。たまにメモしたくなることが書いてあるが、大半が解釈困難な長い本。読む人の心理状態によってどのような本か変わる。主要な教訓やメッセージも変わる。多分そんな本。

 

 

自己啓発、恋愛、結婚、友情、宗教観、死生観など多岐のテーマに対応している。抽象度の高さから、長い年月を経ても普遍性が失われず示唆に富む。「背中を押してくれる、前向きになれる」とも読める一方で「世の中アホだらけで困るわ、、」的な感じもある。

 

 

超訳や漫画もたくさんあるようなので、今回の読書をきっかけにパラ見してみよう。

 

〇MEMO

ニーチェ公式の解説書的位置付、論文

道徳の系譜』(1887年)

ヤスパースによるニーチェ宗教観解説

ニーチェキリスト教』 (1965年)

鈴木大拙(1960)『禅の思想』岩波文庫。

◆概要

【執筆動機】

人間は思想なしに生きて居れぬのであるから、禅にも何か自らを道取する方法がなくてはならぬ。それが禅問答である。本書はこのようなわけで、知、行、問答の順番で編まれたのである。(p.6)

 

【中点】

実際最初に書かれたのは「行篇」である。それは行即ち生活が禅の主体なので、自ら筆はそこから染め始められた、而して本書の中点もそこにおかれてある。(p.6)

 

◆本文抜粋

【禅の思想】一言で云うと、禅の思想は、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別、相非の相即、事事無礙、万法如如など云う成語・成句で表栓せられる。禅の行為は、無功用の功用、無行の行、無用の用、無作の作、無求の求などと説明せられる。禅について、何か叙述したり、説明したりしようと思うと、いつも逆説的文字をもちいることになる。(p.19)

 

【無心と慧眼】心に即して無心なるが、仏道に通達すると云うことである。物に即してあれこれと云う己見を起さざるを、道に達すると名づける。向こうから来る物に対して、直きに達してその本源を知りぬくような人があれば、その人の慧眼の目は開けて居るのである。(p.43)

 

【可能・不可能】経験事実のうえから云うと、可能・不可能は論理的仮説の問題だとみてよい。事実のうえでは、そうだからそうだと云うだけのことで、話はすむわけである。禅者の立場からは、それは無縄自縛に過ぎない。しかし哲学者はそれでは承知せず、一般の吾等ももっとはっきりと云ってほしいと云うであろう。(p.50)

 

【真理/全面と一面】もし禅が単なる虚無主義、汎神論的神秘主義であって、それ以外の何物でもないと云うことになったら、何もそんなにやかましく「禅」「禅」と言うには及ばぬのである。少しわかった仏教者と思われるものさえ、禅についての徹底した了解がないので、甚だ情けなくなる。(p.73)

 

【至道無難】至道は無難である、何でもないものじゃ。が、ただ嫌いたいのはけんじゃくで、良いとか悪いとか云う分別、即ちはからいである。これがいけない。(p.74)

 

【無功徳】無功用、または無用、または無功徳は禅の行為的原理である。(中略)不識が禅の思想または哲学であり、無功徳が禅の倫理であり、宗教であると云ってよい。不識の論理は無知の知、無分別の分別である。(p.153)

 

【矛盾】個と超個とは矛盾するようにできている。この矛盾は脱却せられぬもの、解消せられぬものである。矛盾を矛盾としてそのままに受け入れることが脱却であり、解消である。般若の論理はそれを即非と云う。(p.156)

memo.芝居は矛盾をそのまま舞台の上に載せた

 

【常識】わざわざ常識外れのことを云いたいと云うわけではない。その常識のなるものが始めから自分の外に何もないと決めたのがいけないのである。それで自分自身も却ってその根底からひっくり返されて、今更びっくりすると言うことになる。常識と云うは分別に他ならないのである。禅者から見ると、山が動くと云うも、山が動かないと云うも、どちらでも良いのである。それじゃ無茶苦茶で、何も話にならぬと云われるに決まっているが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。ここが肝心なので、これを把握しなければならぬのである。(p.257)

 

◆所感

理解できない記述は、自分の教養不足を完全に棚上げして早々に諦めることにしている。その観点でいうと、本書は諦める回数を数える仕事に困らなかった。少し考えればわかりそう、という手応えめいたものも少なく、普段にも増して文字を流し読みしてしまった。「わからなかったが一応目を通した本シリーズ」の仲間入り。

 

従前に、この本は難解という噂を聞いていたが、なるほどと納得した。しかも、どうやら知識を増やせば理解できるという類の難解さでもなさそうである。そもそもの知識不足ゆえ、分かったつもりになる余地が無かったのはかえってよかったのかもしれない。

 

さてしかし、読んで分からぬでは話にならぬと云うことであるが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。

 

それじゃ無茶苦茶で、何も話にならぬと云われるに決まっているが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。(p.257)

 

*この構文は使いどころが多そう

 

◆追記メモ2022.5.4

自己肯定と自己肯定

自己否定も自己肯定も過ぎるとよくない、では中間がいいのか、とか肯定と否定の往復がいいのか、というとそうでもない。

 

極端な考えを異端と決めつける考え方もまた極端である。換言すると、中間がいい、と中間のみを良しとする考えは極端である。

 

なるほど、では答えもなさそうなので考える必要はないのか、というとそうでもない。それでは話にならぬと云うのであるが禅者は(略