◆概要
【執筆動機】
ちまたに問題解決や思考法をテーマとした本は溢れている。しかし、その多くがツールやテクニックの紹介で、本当に価値あるアウトプットを生み出すという視点で書かれたものは少ないように感じる。(p.2)
【想定読者】
意味あるアウトプットを一定期間内に生み出す必要のある人(p.2)
【主張】
知的な生産活動の目的地となるものがイシューなのだ(p.3)
*イシューとは
2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題(p.25)
◆本文抜粋
悩んでいると気づいたら、すぐに休め。(p.5)
問題を見極める、イシューの質を上げる、知りすぎるとバカになる、やることを削る、答えが出せるかにこだわる。(p.21)
まずは横軸のイシュー度を上げ、その後に縦軸の解の質を上げていく。(p.31)
根性に逃げるな。(p.35)
表面的な論理だけで考えたふりをする人にならないよう、心がけてほしいと思う。(p.41)
犬の道に入らないためには(中略)本当に解くべき問題、すなわちイシューを見極めることだ。(p.45)
- 良いイシューの3条件
本質的な選択肢である
深い仮説がある
答えを出せる(pp.55-56)
どれほど鍵となる問いであっても、答えを出せないものは良いイシューとは言えないのだ。答えを出せる範囲で最もインパクトのある問いこそが意味のあるイシューとなる。(p.72)
危険なのは、フレームワークにこだわるあまり、目の前のイシューを無理矢理そのフレームワークにはめ込んで本質的なポイントを見失ってしまう、あるいは自分なりの洞察や視点を活かせなくなってしまうことだ。(p.124)
何を全体として考えて、何を抽出した議論をするか(p.153)
プロフェッショナルの世界では努力は一切評価されない。(p.233)
◆上野千鶴子(2018)、問いを立てることについて
情報を生産するには問いを立てることが、いちばん肝心です。それも、誰も立てたことのない問いを立てることです。適切な問いが立ったとき、研究の成功は半ば約束されているといっても過言ではありません。(中略)問いを立てるには、センスとスキルが要ります。
(中略)センスには、現実に対してどういう距離や態度を持っているかという生き方があらわれます。(中略)問いを立てる際、条件がふたつあります。第一に、答えの出る問いを立てること。第二に手に負える問いを立てることです。(pp.17-18)
その情報は誰に属する情報なのか、一次情報なのか二次情報なのかを、きびしく問いました。(p.21)
「先行研究の批判的検討」をすることによって、自分の立てた問いのどこまでが解かれており、どこからが解かれていないかがわかるようになります。(p.22)
情報生産者が立てる問いは、第一に答えの出る問いです。そして答えはつねに暫定的なもので、いずれ新しい答えに置き換わっていくことでしょう。(中略)データにアクセスがあるかないかも、問いを立てるには重要なポイントです。(pp.37-39)
問いを立てたひとは、すでに「なぜ?」に対する答えを暫定的に用意しているでしょう。これを仮説と言います。(中略)これはまだ検証されない思い込みにすぎませんから、これを「仮説」と呼びます。(p.125)
◆参考文献・引用元
安宅和人 (2010)『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」 』英治出版。
上田正仁(2013)『東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方』ブックマン社 。
◆所感
【読後感想】「イシュー」「犬の道」がことばとして一般的になったきっかけの本。問いを立てることの重要性は上野(2018)、上田(2013)でも指摘されており、「本質的な問い=イシュー、のみつけかた」は普遍的なテーマと考えられる。上野は「答えはつねに暫定的なもので、いずれ新しい答えに置き換わっていくことでしょう。」と指摘している。答えの変化は、問いの側にも影響をもたらす。ここに、イシューを考え続ける必要性と、イシュードリブンの有用性が認識できる。
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【BJ他者感想】イシューをはじめ、書籍全体を通して言葉の定義が曖昧な点が指摘されていた。また、著者の主張が鼻につくといった意見も多くみられた。犬の道の弊害は一定の記述がある。一方、本質的な問いとは何かについて十分な記述がない。だから、読み手としてはストレスが溜まる。それ故、上記のような感想が多かった。
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【改めて感想】野球で言うと「素振り」のような本と解釈する。素振りは一回しただけでは試合ですぐ安打できない。「問いの質を上げる重要性」という普遍的な訓示に対し「7つの習慣」「クリティカルシンキング」「仮説思考」「情報生産者になる」などの素振りに加え、「イシュー」という素振りが加えられたということだ。要するに、結局のところ試合でヒットが打てるかどうかは自分次第、ということである。
「結局自分次第かよ」というツッコミを入れつつも「これは素振りなんだ」という態度で読むと、この手の書籍に対するストレスはいくらか軽減され、要点を受け入れる心理状態に自らを誘導することができるかもしれない。