THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

ショーペンハウアー(1851) 『幸福について』光文社古典新訳文庫。

◆概要

【執筆動機】

ちまたの幸福論に対する批判的検討

学位論文の解説、導入

 

【想定読者】

知的教養よりも富を得ることに千倍も一生懸命

精神がからっぽ

最高級の知的な楽しみを受け付けない(p.25)人

 

【主張】

・人生はこうした幸せな生活と言う考えに合致するものなのか(中略)私の哲学はノーと答える。(いっぽう、「人生の究極の目標は幸福にある」とする幸福論は、この問いに対してイエスと答えることを前提としている。)(pp.9-10)

・孤独の肯定、陽気さwith誇り、健康第一

 

◆本文抜粋

第1章根本規定

アリストテレス人生の三つの財宝】(p.12)

1.何者であるか(人柄、徳、知性ほか)

2.何を持っているか

3.いかなるイメージ、表象、印象を与えるか

 

【メトロドスの指摘】

「私たちの内なる幸福の原因は、外界の諸々の事柄に由来する幸福の源よりも大きい」(p.13)

 

最も高尚で多様性に富み、最も長続きする喜びは、精神的喜びであり、これは主として持って生まれた力に左右されるからである。(p.18)

 

「何者であるか」こそ、人生の幸福にとって最も本質的なものだ。(p.25)

 

 

第2章「その人は何者であるか」について

したがって私たちの幸福にとって、気高い性格、有能な頭脳、楽天的な気質、心根が明るいこと、健康そのものの丈夫な体のような個人的特性にまつわる財宝、つまり「健全なる身体に宿る健全なる精神」が、第一の、最も重要な財宝である。(p.30)

 

美は、愛を前もっての勝ち取らせる公開推薦状のようなものである。(p.38)

苦痛と退屈は、人間の幸福にとって二大敵手である。(p.39)

 

主として、内面が空疎のために、あらゆる種類の社交や娯楽、遊興や奢侈の病的欲求が生じ、そのために多くの人が浪費に走り、落ちぶれて貧窮する。こうした誤った道に踏み込まない手立てとして内面の富、精神の富ほど信頼できるものはない。なぜなら、精神の富が卓越性の域に近づけば近づくほど、退屈が入り込む余地がないからである。(p.40)

 

高度の知性は高度の感性を直接の条件とし(中略)肉体的苦痛は言うに及ばず、精神的苦痛に対しても感受性が強いため、どんな障害にも人一倍我慢できず、ちょっとの邪魔にも耐えられない。(p.41)

 

偉大なる知者は孤独を選ぶだろう。(pp.42-43)

セネカ】「あらゆる愚かさは、己の愚かさに嫌気がさして苦しむ」

【シーラッハ】「愚者の生は、死よりもひどい」

 

かれらは取り交わすべき思想がないために、トランプカードを取り交わし、互いに金を巻き上げようとしている。(p.45)

 

「人間の幸福は、自分の際立った能力を自由自在に発揮することにある」というアリストテレスの説を、ストバイオスも逍遥学派の倫理学を論じた際にそのまま用いており、例えば「幸福とは長所に応じた活動して、望み通り成功することだ」と簡潔に述べ、さらに、卓越した技量はみな「長所」だと説明している。(pp.51-52)

 

単に「余暇がある」というだけでは、すなわち、知性が意志に奉仕するのに「忙殺されていない」と言うだけでは十分ではなく、能力が現実に有り余っていることが必要だ。なぜなら有り余る能力のみが、意志に奉仕しない純然たる知的活動を可能にするものであり、「知的活動なき余暇は死であり、生身の人間を墓に葬るようなもの」(セネカ)だからである。(pp.58-59)

 

ちなみに私の哲学は、私に何やら実利をもたらした事は一度もない。(p.59)

道徳的長所は、主として他人の役に立つ。これに対して知的長所は、何よりもまず自分自身の役に立つ。(p.62)

 

第3章「その人は何を持っているか」について

本当の困窮欠乏と闘ってきた人は、それを話に聞いて知っているだけの人に比べて、困窮に対する危惧の念がはるかに少ないために、無駄遣いしがちである。(中略)貧しい境遇に生まれたものは、貧しさが自然な状態であり、何かの弾みで富が転がり込むと、富は単に享楽と蕩尽に適した過剰なものとなり、その富がなくなれば、以前と同様に、なしで済ませることができるし、富にまつわる気がかりからも解放される。(中略)さらにこのような人々は(中略)困窮のどん底にあっても底なしのどん底とは思わず、底までいけば、また高みへ浮上すると思っているのは言うまでもない。(pp.78-79)

memo.よくも悪くも

 

第4章「その人はいかなるイメージ、表象、印象を与えるか」について

(名誉と位階と名声)

名誉はそもそも間接的な価値を持つだけで、直接的な価値を持つものではない(中略)誇りが何らかの点で自分の圧倒的価値にゆるぎない確信としているのに対し、虚栄心は他人の中にこうした確信を呼び起こしたいと言う願望であり、大抵、そこから生じた他人の核心を自分の核心にできれば、という密かな希望を伴うことにある。したがって、誇りが自分自身に対して「内から」発する、直接的な高い評価であるのに対して、このような高い評価を「外から」間接的に得ようと励むのが虚栄心である。それゆえ、虚栄心は人を饒舌にし、誇りは寡黙にする。(pp.97-98)

 

誇りの中で最も安っぽい誇りは、国民的誇りだ。(p.100)

 

「名誉とは外面的良心であり、良心とは内面的名誉である」(中略)「名誉とは、客観的にみて、私たちの価値に対する他人の思惑であり、主観的にみて、この思惑に対して私たちが抱く恐れである」(pp.103-104)

 

名誉は、「積極的」な性格を持つ名声とは対照的に、ある意味で「消極的」な性格のものだ。(p.107)

 

まず騎士の名誉原理という盲信から解放されれば、その結果、もはや誰一人、罵詈によって他人の名誉をいくばくか奪い、自分の名誉を回復できるなどという思い違いをしなくなるだろうし、また進んで決闘に応じることによって、すなわち戦うことによって、あらゆる不正・粗暴・乱暴がたちまち正当化されるなどという事はもはやなくなるだろう。(p.145)

 

「妬みが君のすべての同時代人に沈黙を課したとしても、悪意なく、私情を挟むことなく判断する人々が、きっと現れるでしょう」(p.163)

 

ある人物が後世、すなわち人類全体に属していればいるほど、彼が生きている時代になじまない(中略)時代そのものと密接に結びついているわけではなく、人類の一部という意味でその時代に属するだけなので、その時代固有のカラーに染まっていないからだ。(p.164)

 

名声と若さを同時に持つのは、人間の身には過ぎたことである。(p.182)

 

 

第5章訓話と金言

アリストテレス『ニコマコス倫理学』】「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」(p.190)

 

ピュタゴラスが言う「毎晩、寝る前に一日にしたことを吟味する」習慣(中略)記念すべき時点の表明は、記憶すると言うより、むしろ記録して大事に取っておくと良いだろう。(p.220)

 

【凡人との交流コスト】本人に備わる価値が多ければ多いほど、利益は損失を補填せず己に不利な取引になることがますますはっきりしてくる。(p.224)

 

何人たりとも、「自分自身を上回る」見方はできない。(中略)なぜなら自分自身の知力を基準に、他人を把握し理解するしかないからだ。(p.280)

 

毅然として相手を構いすぎずにいれば、そうそう友を失うことはないが、親切すぎて察しがよすぎると、相手は傲慢で鼻持ちならない振る舞いをするようになり、そのために絶交にいたる。(p.287)

 

犬でさえ親切にしすぎると、なかなかおとなしくしていないものだ。(p.289)

 

第6章年齢による違いについて

青年期にはしばしば俗世間から「見捨てられた」ように感じるが、後年になると俗世間から「のがれた」ように感じる(p.355)

 

◆参考文献・引用元

Arthur Schopenhauer(1851) ”Parerga und Paralipomena”(鈴木芳子 訳(2018)『幸福について』光文社古典新訳文庫。)

 

◆所感・BJ後追記予定

孤高のぼっちを肯定しつつ、群れるリア充をこけおろす。知性の高い人が孤独を好むメカニズムを解説するのは良いとして、群れるリア充に対する「バカ乙」的な書きようは「大丈夫なのかな」と思う。

 

 

また「饒舌と虚栄心」「寡黙と誇り」を対比している。趣旨とは異なる話になるが、バカだとバレたくないためわかったふりをし沈黙を貫く人間も多い。守るべき誇りを持たない者が選択する寡黙さは、消極的な虚栄心に由来する。雄弁なバカはその存在を周囲に認知されるが、寡黙なバカは存在が分かりにくい。その点において、雄弁さは悪とは言いきれないばかりかむしろ必要である。ゆえに、僕は饒舌であろうとしている。