THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

【雑談13】理由のない行動

私はきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。
あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
(リチャード ブローティガン,2010『西瓜糖の日々』,p.12)

 

なにをするにせよ、行動に際して「理由」はいくつあっても多すぎることはない。一般的に、理由の数が多いほど行動の必然性は増す。しかし一方で「理由が無い」こともまた、行動の起点になりえる。

僕の場合、旅についてその傾向が顕著かもしれない。旅には趣向がでる。何度も行きたいと思える場所への旅よりも、「きっともう二度と行くことはないだろう」という場所への旅を好んでいる。そういう場所になにかの偶然で行くことになるのがよい、という価値観を持っている。

 

 

たとえば、ハンガリーに興味を持ったことは一度も無かった。訪れたのはずいぶん前だが、今日現在にいたるまで「もう一度行ってみたい」と思ったことは無い。そんな場所に、何故そもそも行くことになったのか。それは友人の誘いがきっかけだった。

「知り合いがハンガリーに留学している。そんな状況でも無いとハンガリーに行くことは一生無い。だから一緒に行こう」と。この誘い文句は、僕にとって強い説得力があった。「行くはずの無い場所へ行く」という機会を貴重とみなすことができた。

しかし出発の直前、友人の身辺に「ちょっとしたトラブル」が発生した。そのため、友人は急きょハンガリーへ行けなくなった。(何度でも言うが)ハンガリーに興味が無かったので、観光地や宿の下調べ、現地での行動計画のすべてを友人に任せていた。そのため、関心の無いハンガリーに準備ゼロで出発することになった。

 

 

空港の書店で「地球の歩き方」を買うか一瞬迷ったが、買わないことにした。「この旅行は、そういう旅行ではない」と考えるのが妥当と思えたし、なにより、ほんの少しも荷物を増やすのがいやだった。すべての情報は現地で得て、その場で判断すればいい。最初からハンガリーに期待は無いのだから、なにも慌てなくていい。それで大丈夫。そう考えた。

初日は空港からブダペスト市街地へ移動し、宿を探すことになった。すると偶然、日本人が経営している宿を見つけることが出来た。上品な婦人が経営する宿で、婦人は僕に旅人にとって有益な情報を提供してくれた。一方で、同じ日に泊まったリヨンから来た女の子は「いかにパンがいつの間にか無くなるか」という不思議な話を繰り返ししてきた。何度も。滞在期間を通じて、彼女から有益な情報を得ることはなかった。

 

 

翌日はユーレイルパスでスロバキアへ行ってみた。隣国チェコとのアイスホッケーの試合が盛り上がっており、僕が訪れた日はスロバキアが勝った。街は大盛り上がりで、僕もスロバキア国歌を知らないなりに一緒に歌うふりをして楽しんだ。

観光地は楽しむための工夫が凝らされている。たとえ目的意識が無くとも、訪れさえすれば観光客になることができる。というより、観光客になることが自動的に決まっている。考えなくてもいいし、その余地がほとんど無いともいえる。それが観光地の特徴であり、都市の持つ力だと思う。

ウイーンを経由してプラハにも行った。チェコでもスロバキアとのアイスホッケーは盛り上がっており、僕が訪れた日はチェコが勝った。(その日はチェコの国歌を歌うふりをした。)

 

 

二週間あまりの滞在は楽しかった。しかし同時に「もう二度と行くことは無い」とも感じていた。味は悪くないが(結果的に二度と)再訪しない飲食店に抱く感想に近い。時々思い出してうっすらと懐かしむ程度がもっとも適切な距離感であり、再訪はそうした調和を失わせる行為のように思われた。僕にとってハンガリー周辺はそういう場所だった。

ハンガリーを訪れた季節は(たしか)春だったが、旅行のことを思い出すのは夏が多い。「パンがいつの間にか消えてしまう」ことを熱心に教えてくれた女の子は西瓜を好んでいたし(西瓜はパンと違って、いつのまにか無くなったりはしないらしい)、なにより、夏の蒸し暑さはどこか遠くへ出かける想像をするのに適しているのかもしれない。

 

 

たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。ーー誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。
それがわたしの名前だ。
そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。
それがわたしの名前だ。
(リチャード ブローティガン,2010『西瓜糖の日々』 ,p.12)