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FESTINA LENTE

【雑談14】継続しない力


世の中的には、「嫌なことでも我慢して取り組むことで成長する」という価値観がある。それはまったく否定しないが、僕には単にそれが無理で、やる気もないという話となる。(雑談12より) 

 


先日、同級生が過労で入院したことを知る。仕事を楽しんでいる様子はなかった。にも拘らず、それほどまでに「苦労」を受け入れてしまうのは何故なのだろう、と疑問に感じる。

「苦労を乗り越える素晴らしさ」はちまたにあふれている。(雑談8) 一方、「苦労などしなくていい」という考え方はそれほど聞かない。苦労を回避するための手段として「楽しむ」という考え方/姿勢がある。(雑談11) しかし「苦労」を前提とした価値観が蔓延していると「楽しむ」という考え方は育ちにくい。苦労を強いて「継続を促す」ことで「取り組み対象がむしろ嫌いになる」というケースは少なく無い。

この文章では、「継続は力なり」という言葉が用いられる際の「苦労を是とする論理と構造」をふりかえり、逆説的に「継続しないことを肯定する」考え方を整理する。

 

 

「継続は力なり」という言葉がある。やる気の落ちたフォロワーに対して指導者が「我慢して続けましょう」の意で使うこともある。この点において、僕は「論理の順序が逆だ」という感想を持つ。あるいは、「他に継続を促すロジックを説得的に構築できなかった者がたどり着く、最後のワラだ」とも捉えている。何も言っていないのと実質的に同じだが、「何も言わなかったわけではない」という類の言葉かもしれない。

僕は2流の学習塾で3流講師としてアルバイトをした経験(雑談4)がある。学習成果の上がらないケースの多くで「論理の欠如した継続圧力」による指導が散見されていた。そうした指導では、ほとんど成果は上がらない。

にもかかわらず「継続は力なり」を「兎にも角にも続けろ」の文脈で使用する講師は多かった。結果として、成果は上がらない上に、生徒は「継続力の無い自分が悪い」と自己肯定感が下がるなどの弊害が生まれる。「苦労を是とする論理」に拠って立つと、講師はリスクを回避できる反面、そのツケ(責任/弊害)は生徒に生じる。

 

 

たしかに、継続すれば力はつく。当たり前のことだ。しかしそれが難しい。「継続には力も必要」という逆の視点や「力が無くても継続するためにはどんな論理が必要なのか」という発想が必要だが、示されることは稀である。なぜか。それは、「苦労を乗り越えること」を前提としているためだ。「いいから耐えろ」「石の上にも三年」に近い。

 

 

僕としては「継続したつもりは無いのにいつの間にか勝手に力がつきました」がベターと考えている。楽しんで取り組む、あるいは苦楽が融合していても「継続に対し、デメリットを上回る十分なメリットを理解しているため自発的に取り組める状態」である。逆にいうと、メリットを見失ったなら止めればいいと思っている。

「そんな態度では何も身につかない」とか「耐えることではじめて見える景色がある」と考える人もいるかもしれない。しかしその考えに則り「耐えと苦労」を美化し「継続することを内発的に促す論理と説得を放棄」していい理由にはならない。もし「苦労を与える」とするならば、それは慎重に、かつ自覚的にすべきである。

「兎にも角にも続けろ」の一番の問題は、「継続しているのになかなか力がつかない」という状況が頻発する点にある。継続が「手段」から「目的」に変わり、しかもその筋が悪い場合こうなる。まさに本末転倒。

 

 

継続すれば多少の力がつくのはあたり前の話だ。だからといって、何でも続ければいいわけではない。人生の時間は有限で、面白いことはほとんど無限にあるためだ。だから、「継続は力なり」という言葉と対面した時は、きわめて逆説的だが「やめ時」だと思う。「そこ」にすがるくらい、自分にとって魅力が無い証左かもしれない。

継続するか否かが問題にならないくらいモチベーションを高く保つためには、「楽しむ」という発想や、いい指導者との出会い、あるいは「運」なども必要だ。
<<構造の図解イメージ>>

 

 

ところで、苦労を伴わずに成長すると、「苦労を知らないと他人の気持ちが分からない」といった指摘をする人がいる。これはまあ、そうかもしれない。そういう側面もあると思う。ただし、苦労した人が「お前も苦労したほうがいいよ」とおススメするのは筋が違うような気もする。

敬虔な苦労教の信徒は、苦労をせずに成長する考え方を「異端」とみなす。苦労教徒は「みんな等しく(いや可能であれば自分以上に)苦しむべきだ」と考えている。だから他人に対して「苦労」を与える。

家事ひとつをとっても、過去にはお弁当で冷凍食品がご法度だったり、全自動洗濯機より手洗いの方がいいとされていた時代もあった。ベビーシッターを雇う親は愛情が不足しているというレッテルも貼られていた。いかなる「楽」も否定し「苦労しないと愛情が伝わらない」という価値観が存在する。「自分がした苦労を若い世代がしないのは許せない」という心理が働いているのだろう。

大阪大学の西條教授の研究によると、とりわけ日本人は「自分が損をしてでも、他人の得を阻止する」傾向があるらしい。(西條,2006 )

 

 

他者からの助言を参考にし、最終的に自らの意思で「継続」を選択するのは素晴らしい。継続そのものには、なんらとして否定すべき要素はない。一方で、「継続と苦労の圧力」が働きやすい構造を理解する必要がある。その上で「別に継続しなくてもたいしたことは無い」という発想を持つことで、判断を主体的にくだすことが可能となる。

そして、万一他人に「苦労を与える」際には、(いかように解釈するにせよ)少なくとも「自分は今、相手に苦労を与えている」という明確な自覚を持つことも必要だと思う。他人の足を引っ張ることなく、安易に苦労を与えず、物事の楽しさを見つける手助けに注力したい。

また自身においても、「安易な継続」より「新しい挑戦」を肯定していきたい。新年を迎えるにあたり「人生の時間は有限で、面白いことはほとんど無限にある」ことを再度意識する必要もあるかもしれない。