THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

【雑談1】教育とお金

大人になってから分かったことだが、僕が生まれた家はそれなりに貧乏だった。父の年収は300万円に満たなかったうえに、それが家計収入のすべてだった。父は学習塾の時間講師という自由度の高い職に就いていた。夕方頃に家を出て夜の23時頃に帰宅するのが彼のワークサイクルだった。週に3-5日の就労である。


つまり簡単にいうと、父は塾講フリーターだった。彼は大学を卒業後、数か月だけ大手製薬会社に勤め、「あまりに阿保らしいので辞めた」という過去を持つ。そのことを知ったのは僕が社会人になってからである。(なにがどう「阿保らし」かったのか詳細を聞く前に父は他界してしまった)小中学生の頃は、父の職業について深く考えることは無く「ずいぶんと楽そうな仕事だな」という程度の感想だった。


父が学習塾の講師と知った友人は、しばしばそのことを羨ましがった。「勉強を教えてもらえる」と想像したためだが、実際のところ、父は僕に対して科目学習の指導をすることは無かった。「積極的に教えてくる」ことは当然無かったし、解き方が分からない問題について聞いた際も「質問が悪い」と一蹴された。「何がどう解らないのか説明できていない」というのが彼の基本的な態度であった。


「何がどう解らないかを説明できる状態になる」というプロセスを踏むと、解からない問題はほとんど無いことが理解できた。あるいは、その時点で解からなくとも、解かるために必要な過程を概ね透視できる状態になった。父は僕の学業成績について興味を示すことは無く、テストの点が良くとも悪くとも、そのことについて何かを指摘したり助言するようなことは一度も無かった。

 

 

一方で、遊ぶことには熱心であった。小学生の頃は毎年2月(私立中学入試の終ったあと)に、僕に数週間学校を休ませて北海道へ旅行に出かけた。6年間連続である。自分の家が貧乏だと気付かなかったのは、この旅行の存在も大きかったかもしれない。加えて、ゲームや漫画など欲しいものについても、ほとんど無制限に買ってもらえた。(こうした家庭環境は、僕から勉強のプレッシャーを奪った。好きなことだけしかしない、換言するとほとんど努力の出来ない人格が形成された。 )

 

 

科目学習に対する興味が持続したため(簡潔にいうと「勉強好きだったため」)学習塾や予備校に通うこと無く京都大学に合格出来た。関心のある分野が変わり、別の大学に入学したが、そちらでも授業料は全額免除された。 「子どもの教育にはお金がかかる」というが、僕はその点、たいしてお金がかからなかったといえる。こうした経緯もあり、自分の生まれた家が貧乏だったと自覚したのは大人になってからである。


そんな僕が学生時代に「塾講師のアルバイト」をした のは単純な興味関心からだった。僕が担当した生徒は「勝手に」成績がどんどんと伸びることが多かった。こんなに「楽」な仕事は無いと思った。同時に、「こんなことでお金をもらっていいのか」と良心が痛んだりもした。僕の指導実績を風のうわさで知った富豪は、1万円を超える時給を僕に払ってくれることもあった。週2回の家庭教師で月30万円以上がもらえた。


富豪の家は父親が大企業の役員であることが多く、とても上品な家柄だった。子息は申し分のない進学校に通っており、学校の勉強さえしていれば良いと思われた。そのため「家庭教師は必要ありません」と断りに行くのだが、どういうわけか断った直後に「曜日の相談」をされた。彼ら彼女らには指導など最初から必要が無いため、塾以上にすることが無かった。自習を促し、休憩に出てくる異様に美味しいお菓子を一緒に食べて、ふたたび自習を促して半日が終わる。


当然のように、彼ら彼女らは志望校に合格する。僕にとっては冗談みたいな世界だった。(合格祝いに図書カードを渡すと、そこに対しても内祝が返ってくる。)自分が分不相応な報酬を得ていることについて父に意見を聞いたことがあった。父はしばらく考えてこう言った。「家庭教師というのは、お金のない学生をお金持ちが支援する”制度”という側面がある。だから気にすることは無い」と。


当時の僕としてはよく解からない理屈だったが、取り急ぎとして「楽をしてお金を稼ぐこと自体は悪くない」という価値観が強化された。また「お金はあったほうが良い」ただし「お金が少なくても、たいていは考え方次第でなんとかなる」というごく普通の所感に至った。(運も良かった)