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FESTINA LENTE

【雑談2】地平線部という選択


初対面の方との会話の中でしばしば、高校の頃の部活動がなんであったか話題になる。僕にとって苦手な話題のひとつである。なぜなら、僕が所属していた部は「地平線部」だったからだ。


僕の通っていた高校は、歴史の古さと日教組の強さに定評がある公立校だった。近年制服が導入されたが、通っていた当時は私服だった。大昔は京都大学合格者数の多い進学校だったが、「公立校なのに難関なのはおかしい」という風潮により大幅に易化した。学力低下に伴い失われるべき自由な校風は(なぜか)維持された為「単になんでもあり」な学校だった。


私服、髪染め、授業サボって遊びに行ってOKなど、高校というよりも大学に近い雰囲気だった。「学力と自由度は相関する」というが、「学力はないがとにかく自由」という異様な状況である。三年生は文化祭で警察に先導されてデモ行進を行うリベラル全振の行事が存在した。公立校にもかかわらず、あらゆる点で偏りのある高校だった。そんな高校の一風変わった文化部、それが地平線部である。

 

 

地平線部は、実際のところ社会問題を研究する部活であるが、そんなことはどうでもよかった。僕にとって重要だったのは「地平線部の部員がゼロ人」だったことだ。これは、入部した瞬間に部長になることは勿論、狭いアパートくらいの広さがある部室棟の「個室」を私物化できることを意味していた。地平線部は、伝統ゆえに廃部にこそなっていないものの、名称の奇怪さも手伝い長らく部員が存在しない部であった。


入学後ほどなくして部の存在を知った僕は注意深く、しかし大胆に入部届に署名し顧問に提出した。顧問の教師は久々の入部希望者に困惑していた。明らかに歓迎していない雰囲気である。「俺の仕事を増やしてくれるな」という意図を読み取ることができた僕は、なんとか教師を説得し入部が認められた。余談だがこの教師、僕が卒業した数年後にヤフオクの悪質な不正利用で逮捕されることになる。地平線とまではいかないが社会問題の先端を”実践”した結果、少なくとも塀の奥には到達したようである。

 

 

三年間を通して部としての主活動はいっさい行わなかったが、部室のリフォームは熱心におこなった。柔道部から古い畳を譲り受け、生徒会からソファをもらい、美術部に壁面アートを描いてもらうなどした。思えば、「環境の改善が生活を快適にし、効率化する」という学びを得たのは、地平線部の部室私物化に起因するところが大きい。また、「チャンスは案外そのへんに転がっている」という所感も強化された。


高校を卒業するころには部室はかなり快適な空間に仕上がっていた。部室ではアホな友だちらと卓球やゲームに興じ「高校サヨナラ」の親睦を深めていた。そのアホな友だちのひとりがサッカー部の部長であった。当時、日韓W杯で空前のサッカーブームに沸いており、僕もミーハーながら「時代はサッカー」と思っていた。そのことを友人に話すと「今度京大のインカレサークル行くけど一緒に行く?」と誘ってくれた。


そのインカレサークルのサークル長だった人が、今僕が務めている会社の社長である。冗談みたいな話だが実話である。チャンスは(地平線などではなく)そのへんに転がっている、と思う。(運もよかった)