THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

鈴木大拙(1960)『禅の思想』岩波文庫。

◆概要

【執筆動機】

人間は思想なしに生きて居れぬのであるから、禅にも何か自らを道取する方法がなくてはならぬ。それが禅問答である。本書はこのようなわけで、知、行、問答の順番で編まれたのである。(p.6)

 

【中点】

実際最初に書かれたのは「行篇」である。それは行即ち生活が禅の主体なので、自ら筆はそこから染め始められた、而して本書の中点もそこにおかれてある。(p.6)

 

◆本文抜粋

【禅の思想】一言で云うと、禅の思想は、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別、相非の相即、事事無礙、万法如如など云う成語・成句で表栓せられる。禅の行為は、無功用の功用、無行の行、無用の用、無作の作、無求の求などと説明せられる。禅について、何か叙述したり、説明したりしようと思うと、いつも逆説的文字をもちいることになる。(p.19)

 

【無心と慧眼】心に即して無心なるが、仏道に通達すると云うことである。物に即してあれこれと云う己見を起さざるを、道に達すると名づける。向こうから来る物に対して、直きに達してその本源を知りぬくような人があれば、その人の慧眼の目は開けて居るのである。(p.43)

 

【可能・不可能】経験事実のうえから云うと、可能・不可能は論理的仮説の問題だとみてよい。事実のうえでは、そうだからそうだと云うだけのことで、話はすむわけである。禅者の立場からは、それは無縄自縛に過ぎない。しかし哲学者はそれでは承知せず、一般の吾等ももっとはっきりと云ってほしいと云うであろう。(p.50)

 

【真理/全面と一面】もし禅が単なる虚無主義、汎神論的神秘主義であって、それ以外の何物でもないと云うことになったら、何もそんなにやかましく「禅」「禅」と言うには及ばぬのである。少しわかった仏教者と思われるものさえ、禅についての徹底した了解がないので、甚だ情けなくなる。(p.73)

 

【至道無難】至道は無難である、何でもないものじゃ。が、ただ嫌いたいのはけんじゃくで、良いとか悪いとか云う分別、即ちはからいである。これがいけない。(p.74)

 

【無功徳】無功用、または無用、または無功徳は禅の行為的原理である。(中略)不識が禅の思想または哲学であり、無功徳が禅の倫理であり、宗教であると云ってよい。不識の論理は無知の知、無分別の分別である。(p.153)

 

【矛盾】個と超個とは矛盾するようにできている。この矛盾は脱却せられぬもの、解消せられぬものである。矛盾を矛盾としてそのままに受け入れることが脱却であり、解消である。般若の論理はそれを即非と云う。(p.156)

memo.芝居は矛盾をそのまま舞台の上に載せた

 

【常識】わざわざ常識外れのことを云いたいと云うわけではない。その常識のなるものが始めから自分の外に何もないと決めたのがいけないのである。それで自分自身も却ってその根底からひっくり返されて、今更びっくりすると言うことになる。常識と云うは分別に他ならないのである。禅者から見ると、山が動くと云うも、山が動かないと云うも、どちらでも良いのである。それじゃ無茶苦茶で、何も話にならぬと云われるに決まっているが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。ここが肝心なので、これを把握しなければならぬのである。(p.257)

 

◆所感

理解できない記述は、自分の教養不足を完全に棚上げして早々に諦めることにしている。その観点でいうと、本書は諦める回数を数える仕事に困らなかった。少し考えればわかりそう、という手応えめいたものも少なく、普段にも増して文字を流し読みしてしまった。「わからなかったが一応目を通した本シリーズ」の仲間入り。

 

従前に、この本は難解という噂を聞いていたが、なるほどと納得した。しかも、どうやら知識を増やせば理解できるという類の難解さでもなさそうである。そもそもの知識不足ゆえ、分かったつもりになる余地が無かったのはかえってよかったのかもしれない。

 

さてしかし、読んで分からぬでは話にならぬと云うことであるが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。

 

それじゃ無茶苦茶で、何も話にならぬと云われるに決まっているが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。(p.257)

 

*この構文は使いどころが多そう

 

◆追記メモ2022.5.4

自己肯定と自己肯定

自己否定も自己肯定も過ぎるとよくない、では中間がいいのか、とか肯定と否定の往復がいいのか、というとそうでもない。

 

極端な考えを異端と決めつける考え方もまた極端である。換言すると、中間がいい、と中間のみを良しとする考えは極端である。

 

なるほど、では答えもなさそうなので考える必要はないのか、というとそうでもない。それでは話にならぬと云うのであるが禅者は(略