THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

フリードリヒ・ニーチェ(1883-85)『ツァラトゥストラはこう語った』。

◆概要

【執筆動機】

わたしも自らの知恵に飽きた。(中略)贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧弱たちが再びおのれの豊かさに、気づいて喜ぶに至るまで。(p.14)

 

【想定読者】

悩んでいる賢人

万人のための、しかも誰のためでもない、一冊の書(氷上英廣訳、誰でも読めるが、誰にも読めない書物)

 

【超人】

わたしは諸君に超人を教える。(p.18)

すべての神々は死んだ。今われらは、超人が生まれることを願う。(p.133)

 

◆本文抜粋

彼らに何も与えるな。それよりも、彼らが背負っているものを持ってやって、一緒に背負ってやるが良い。それが彼らにとって何よりの親切だ。もっとも、君がそれを望むのならば、だ。それでも与えたいと言うのなら、施しとしてだけで、それ以上は与えるな。しかも、彼らにまず物乞いをさせてからだ(p.16)

 

かつては、魂が肉体を軽蔑の眼差しで見ていた。当時は、このような軽蔑こそが、至高のものとされていた。魂は肉体を、痩せさらばえて、醜く、飢えているものにしようとした。そうすれば、魂は肉体から、そして大地から、うまく逃げおおせると思い込んでいた。(p.19)

 

最も軽蔑すべき人間の時代が来る。もはや自らを軽蔑することができない人間の時代が。(p.26)

 

創造するものは道連れを求める、亡骸ではなく、畜群でも信者でもなく。創造するものはともに創造するものを求める、新たな価値を新たな石版に刻む者たちを。(中略)ツァラトゥストラは共に創造するものを求める。共に収穫し、共に祝うものを求める。(p.36)

 

私は君たちの道を行かない。肉体を軽蔑する者たちよ。私にとって、諸君は超人へと架かる橋ではないのだ。(p.55)

 

諸君の徳のあいだの嫉妬と不信と誹謗は避けられない。(中略)人間とは、乗り越えられるべき何かだ。だからこそ自らの徳を愛さなくてはならない。それらのと徳は、君を破滅させるだろうから。(p.59)

 

山の中で最短の道は、山頂から山頂へ飛ぶ道だ。(p.64)

 

本当に偉大なのは、創造することだ。だが、大衆はほとんどこれを理解しない。(中略)役者にも精神はある。だがその精神には良心がほとんどない。つねに彼が信じるもの、それはもっとも多くの人々を信じさせるためのものだ、、、彼自身を信じさせるものである。(pp.86-87)

 

認識を志す者が、真理の水に入るのを嫌うのは、その真理が汚れている時ではない。その真理が浅い時だ。(p.92)

 

君たちの隣人愛は、君たち自身をうまく愛することができていないということだと。(p.102)

 

君たちに敵があるなら、その悪に対して善で報いるな。それは敵を恥させることになるから。それよりも、敵が諸君に何か良いことをしてくれたのだと、証し立てて見せよ。(p.115)

 

死ぬべき時に死ね。(p.121)

神はひとつの憶測だ。(p.142)

すべての創造者は苛酷である。(p.151)

 

私を捨て、自らを見出せ。そして君たちが皆、私のことなど知らぬと言うようになったときに、私は諸君のところに帰ってくる。(中略)今とは違った愛で、諸君を愛するだろう。(p.132)

 

犬が狼を憎むように民衆が憎むものがある。自由な精神だ。束縛の敵となるもの、崇拝を拒むもの、森に棲む者だ。彼らをその隠れ家から狩り出すことが、民衆がいう正義感だ。(p.173)

 

君たちが打ち立てた様々な価値から育ってくるのは、いっそう強い暴力と新しい克服だ。(中略)最高の悪は最高の善の一部だ。そして最高の善とは、創造的であることだ。(p.198)

 

学者は監視しあっている。お互いをあまり信頼していない。(中略)なぜなら、人間は平等ではないからだ。公正はそう語る。私が欲することを、彼らが欲する事は許されていない。(pp.216-217)

 

君は、偉大なるものへと向かう君の道を行く。君の後にもう道はないと言うことが、君の最高の勇気の源とならねばならない。(中略)もっとも高いものは、もっとも深いものからその高みに達さねばならない。(pp.262.264)

 

彼がかつて何かを証明したことがあるとでも言うのか。彼は証明は苦手で、信じてもらうことが重要なのだ。そうだ、そうだ。信じれば幸福になるが、信じてもらっても幸福になる。老人とはそういうものさ。我々だってそうだ。(p.313)

 

神々はいる。だが唯一の神などいない。それこそが神的なことではないか。(p.314)

 

善人は決して真理を語らない。このような仕方で善良である事は、精神にとって病である。(p.344)

 

善人たちは、創造することができないのだから。彼らは常に終わりの始まりだ。新しい価値を新しい石板に書きつける者を、彼らは十字架にかける。おのれのために未来を犠牲にする。人間の未来すべてを十字架にかけるのだ。善人たち、彼らは常に終わりの始まりだった。(pp.365-366)

 

あなたは、ついに疲れてきたのか。向こうは夕焼けて、羊たちが群れている。羊飼いたちの笛の音を聴きながら眠るのも悪くあるまい。(p.389)

 

だが、私もまた預言者なのだ。(p.414)

 

私は知において良心的であろうとするものです。(中略)多くのことを生半可に知るよりは、何も知らない方が良いではありませんか。他人の判断に従って賢者でいるよりは、自らの力のみ頼りにする阿呆の方が良い。私は底の底まで行ってやろうと思うのです。(pp.424-425)

 

なたはもはや神を信じない、だがそれはあなたの敬虔さ自体のなせる技ではないか。(p.446)

 

昨日の朝、この上に座っていた。ここへ預言者がやってきた。(p.562)

 

◆吉澤伝三郎(1967)より

ハイデガーの指摘

この書が述べるところは、各人に、万人に向けられている。しかし、何人も、まさにあるがままの自分である限り、つまりあらかじめ、そして同時に変化しない限り、誠にこの書を読む権利を決して持たない。すなわち、この書は、まさにあるがままの私たち万人のうちの何人のための書でもないのである。万人のための、そして何人の人のためのものでもない一冊の書、したがって、決して直接的に読まれることのできない、また許されない書なのである。(p.12)

 

実存哲学は第一次大戦期の危機意識を基盤として成立した。現代の危機を、現代の現実的状況へ沈潜することを通じて超克しようとするところに、総じて実存哲学の基本的姿勢がある。その意味で、実存哲学は一つの徹底的な現実主義の哲学である。しかも、現実に対して否定的な姿勢をとるところに、実存哲学における現実主義の特性がある。(p.156)

 

著作における永遠回帰思想の提示の仕方は、要するに実存論的、いや実存的ですらあるのである。すなわち、ツァラトゥストラ自身がまずこの思想を告知シュールものにまで成熟することが先決問題であると言う立場が貫かれているのである。(p.163)

 

 

 

◆参考文献

Friedrich Wilhelm Nietzsche(1883-85) "Also sprach Zarathustra" (佐々木中 訳(2015)『ツァラトゥストラはこう語った河出書房新社。)

吉澤伝三郎(1967)『ツァラトゥストラ入門』塙新書

 

◆所感

初読。たまにメモしたくなることが書いてあるが、大半が解釈困難な長い本。読む人の心理状態によってどのような本か変わる。主要な教訓やメッセージも変わる。多分そんな本。

 

 

自己啓発、恋愛、結婚、友情、宗教観、死生観など多岐のテーマに対応している。抽象度の高さから、長い年月を経ても普遍性が失われず示唆に富む。「背中を押してくれる、前向きになれる」とも読める一方で「世の中アホだらけで困るわ、、」的な感じもある。

 

 

超訳や漫画もたくさんあるようなので、今回の読書をきっかけにパラ見してみよう。

 

〇MEMO

ニーチェ公式の解説書的位置付、論文

道徳の系譜』(1887年)

ヤスパースによるニーチェ宗教観解説

ニーチェキリスト教』 (1965年)