THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

谷崎潤一郎(1933)『陰翳礼讃』パイインターナショナル。

◆概要

【執筆動機】

自分も含め、なぜ日本人はうすぐらがりが好きなのか。

*陰翳...うすぐらいかげ

 

【想定読者】

中途半端に西洋化し、日本固有の陰翳を尊ぶ美的感覚を失いつつある現代人

 

【主張】

我々が既に失いつつある陰翳の世界を(せめて文学の領域へでも)呼び返してみたい(p.242)

 

◆本文抜粋

暗い部屋に住むことを余儀なくされた、われわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。(はじめに)

 

されば日本建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。(p.21)

 

やはりああ云う場所は、もやもやとした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい。(p.27)

 

文明の利器を取り入れるのに勿論異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれわれの習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのだろうか、と云う一事であった。(p.28)

 

つまり、一口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起こっていると思われる。(pp.53-54)

 

機械にかけたら間は完全に死んでしまう。(中略)西洋人のほうは、もともと自分たちの間で発達させた機械であるから、彼らの芸術に都合が良いようにできているのは当たり前である。(p.56)

 

西洋人は垢を根こそぎあばきかせて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存をして、そのまま美化する、と、まぁ負け惜しみを言えば言うところだが、因果なことに、われわれは人間の垢や油煙や風雨の汚れがついたもの、ないしはそれを想い出させるような色合いや光沢を愛し、そういう建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が和らいでき、神経が休まる。(pp.70-71)

 

かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を賛美しておられたことがあった(p.99)

 

かく考えてくると、我々の料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである。(p.111)

 

旧幕時代の町家の娘や女房のものなどは驚くほど地味であるが、それは要するに、衣装と言うものは闇の一部分、闇と顔のつながりに過ぎなかったからである。(p.180)

 

我々の思索の仕方はとかくそういう風であって、美は物体にあるのではなく物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。(p.188)

 

暗いと云うことに不平を感じず、それは仕方のないものと諦めてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、かえってその闇に沈潜し、その中におのずからなる美を発見する。(p.195)

 

 

それは光と闇が醸し出す悪戯であって、その場限りのものかも知れない。だがわれわれはそれでいい。それ以上を望むには及ばぬ。(p.212)

 

なんにしても今日の室内の照明は、書を読むとか、字を書くとか、針を運ぶとか云う事はもはや問題でなく、もっぱら四角の影を消すことに費やされるようになったが、その考えは少なくとも日本家屋の美の観念とは両立しない。(p.230)

 

まぁどういう工合になるか、試しに電灯を消してみることだ。(p.242)

 

◆参考文献・引用元

谷崎潤一郎・大川裕弘(2018)『陰翳礼讃』パイインターナショナル。

 

◆所感

日本の様式美に対して、従来より特段好きという感情は無かった。と、いうよりもよく分からない。暗がりが良いという発想も無かった。東洋と西洋の対比を興味深く読んだが、どうもピンとこない。「なるほどそうなんですねえ、、、」という感じ。かっこいい気はするけど、それ以上のなにかは湧いてこない。