THINK DIFFERENT

FESTINA LENTE

ヨハン・ホイジンガ(1938)『ホモ・ルーデンス』河出書房新社。

◆概要

【執筆動機】

我々の認識のぎりぎりの根底まで考え詰めてみると(中略)人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した、と言う信念に次第に強く傾いていった。(pp.1-2)

 

【想定読者】

文化人類学者、ほか

 

【主題】

文化の持つ遊びの要素、文化そのものがどれほど遊びの性格を持つか。遊びの概念を文化概念の中に組み入れること。(p.2)

 

【遊びの定義、特徴】(pp.21-31)

1、自由な行為である。

2、仮構の世界、利益を度外視し、純生物世界より一段と高級である。

3、時間的、空間的に限定されている。

4、規則を持つ。それを守る点では真面目で真剣だ。

5、秘密を持ち、ありきたりの世界とは別物である。

 

memo.遊びと...(キーワード)

文化、言葉、民俗学、音楽的意味、愛欲的意味、真面目という言葉と概念、勝つこと、裁判、戦争、知識、詩、継形象化、哲学、芸術

 

◆本文抜粋

【遊びと文化】遊びは文化より古い。なぜなら、文化の概念はどんなに不十分に規定されたにしても、常にそれは人間の共同生活を前提としている。(p.11)

 

【遊びの本質】遊びはすでにその最も単純な形においてすら、純生理的現象以上のもの、もしくは純生理的に規定された心理的反射作用を超えた何ものかである。(中略)遊びの本質をなすべき積極的原理を精神と名づければ、いささか言い過ぎになり、これを本能と名付ければ、何も言わないに等しい。(p.12)

 

遊びは真面目でないもの、と言う代わりに、遊びは真剣でないとでも言おうものならたちまち、この対置は我々を窮地に陥れる。なぜなら、遊びは甚だしばしば真剣であるからだ。(p.18)

 

遊びは全てなによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。(p.21)

 

遊びイコール秩序である。不完全な世界を雑然とした生活の中で遊びは一時的で条件付きの完全さを実現する。遊びが課す秩序は絶対的だ。ほんのちょっとした違反が遊びをダメにしてしまい、その特質を消し去り、つまらないものにしてしまう。(p.26) memo.美的領域

 

プラトンにとっては、この遊びと聖なる行為の同一性は無条件で認められていたことだ。彼は何の躊躇もなく聖なる事物を遊びの範疇のもとで理解している。(p.40)

 

神に捧げられる行為はその側面的ないくつかの特徴によって常に遊びの範疇の中に包括され続けるが、しかし、遊びに属したからといっても神聖さの認識が失われることにはならないはずだ。(p.52)

 

言語学的疑問は別にして、遊びと真面目の対立概念をさらによく観察してみるとこの対立においてニつの言葉は決して対等の価値を持つものではない、ことが明らかになる。遊びは積極的概念だが、真面目は消極的だ。(中略)遊びの概念は真面目の概念よりもより高い次元のものだ。なぜなら、真面目は遊びを示出そうと努めるが、遊びは喜んで真面目を自己の中に抱き込むことができる。(p.82)

 

文化はその根源的段階においては遊びの性格を持ち、遊びの形式と雰囲気の中で活動するのだ。(p.86)

 

徳、名誉、高貴、名声は元から競争、つまり遊びの領域にあった。(p.112)

 

裁判は賭けごと遊びであり、競争レースであり、さらには言葉の勝負である。(p.139)

 

ローマにおいても法廷で反対派を陥れるための手段が合法的なものとして長く認められていた。(中略)ストア派の人々は法廷での弁論から遊びの性格を取り除こうとし、さらに真実と尊厳の厳しい標準にそれを一致させようと努力した。(p.151)

 

謎は原則的に元は聖なる遊びであったと結論をしても差し支えあるまい。つまり、それは遊びと真面目の境目にあり、高度の重要性を持っていながら、しかも、遊びの性格を失うことなく、聖なるものとされていた。(p.189)

 

我々は詩の本質の中に遊びの要素が本来的に備わっているのを見てとったし、また詩的なものが取る形式は全て遊びの構造に甚だ強く結びついていることも明らかにした。だから、この2つの内的結合関係はほとんど分かちがたいものであると言わねばならないし、また、その結びつきの中では遊びにしても詩にしてもそれぞれの言葉が独立の意味を失う恐れさえあるといえる。同じような事は遊びと音楽の関係においてより高度に当てはまる。(p.265)

 

遊びは実際生活の道理の枠外にあり、必要や利益の範囲を超えている、と。(中略)遊びは理性、義務、真実の規範の外でその真価を発揮する。(中略)形式化された宗教的概念がなくても、音楽を楽しむことの中には、美の知覚と聖なる霊感が1つになって流れている。この融合の中に遊びと真面目の対立は解消してしまう。(p.266)

 

一般に文化が真面目になった事は19世紀の現象としてほとんど否定し得ないと思われる。文化はその前の時代の文化よりもはるかに遊ばれる度合いが少なくなった。(p.316)

 

文化現象としての男子の服装の平均化と硬直化とを決して過小評価してはならない、と私は思う。(p.317)

 

ユーモアの死滅こそ、遊びの要素を殺してしまう。(p.340)

 

プラトン)確かに、人間的な物事は大真面目になるには値しないものだ。しかし、なんといっても真面目になるのは必要なことだ。ただし何にも幸福にはならんかね。(p.347)

 

遊び真面目の概念の永遠的堂々巡りの中で精神のめまいを覚える人は、論理的なものの中に見失った支えを倫理的なものの中に再発見する。遊びそのものは道徳的規範の領域の外にある。(中略)遊びそのものは良くも悪くもないのだ。しかし、人が今自らの意思に駆り立てられて行う行為は、一体真面目なことと定められているのか、あるいは遊びとして許されているのか、という決定を迫られるなら、彼に判断の基準を提供するのは他ならぬ彼の道徳的良心だ。(p.349)

 

河合隼雄(1998)より

一般的には、遊びは仕事に対して第二義的に考えられていた。(中略)ホイジンハがホモルーデンスによって主張したことは、遊びの第一義性を明確にしたものとして画期的なことと言うべきである。(p.184)

 

文化というものは、生きることの最低条件から見ると余計なこととも言えるわけだ。しかし、そのような余計なこととしての遊びがあってこそ、文化も生まれるのだから、ホイジンハが遊びはいかなる文化よりもさらに根源的と言うのもうなずける。(pp.184-185)

 

現代は効率の時代なので、遊びも効率よくなどと考え始めると、ホイジンハの述べているような意味での遊びではなくなってくるかもしれない。(p.185)

 

◆参考文献

Johan Huizinga(1938) "Homo Ludens" (里見元一郎 訳(1974)『ホモ・ルーデンス    文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』河出書房新社。)

河合隼雄(1998)『青春の夢と遊び』講談社+α文庫。

 

◆memo

○真面目な側面のある遊び、と「度を超えた」真面目の差異

 

八百長は文化?遊びの範疇?

    →ゲームをつまらなくしているか、そういうもんなのか?プロレス、相撲、ボクシングの差異。(楽しみ方、ノリが違う)

安全な場所からの批判に遊びはあるか

マフィア(暴力団)の徹底排除の是非/寛容さ

 

◆所感(BJ後追記)

熱し易く冷め易い、という現象がある。熱しているときは夢中になって取り組むが、ふとした時に冷めてしまうことで、かつて楽しんだ物事が全然面白く感じなくなることである。飽きるともいう。

 

 

飽きる原因にも色々あるが、「遊びでなくなってしまったため」という理由も考えられる。では遊びとはなんなのか。本書では遊びの特徴を5つあげている。このいずれかの特徴を逸脱してしまうことによって、遊びの要素が無くなったり、薄れたりしてしまうことが引き金となり飽きるのだ。

 

 

では、遊びの特徴はいかにして逸脱されるのだろう。こちらの理由も様々だが、多いのは度を超えた「真面目さ」ではないだろうか。もちろん遊びにも一定の真面目さは必要である。しかし、度を超えた真面目さは遊びそのものを、遊びたり得なくしてしまう。

 

 

河合隼雄(1998)が「現代は効率の時代なので、遊びも効率よくなどと考え始めると、ホイジンハの述べているような意味での遊びではなくなってくるかもしれない。」(p.185)と指摘していることにも注目したい。

 

 

むろん継続すればいいという話でもない。別に嫌ならやめればいい。ただ、取り組み方から少し真面目さを取り除くことで、楽しさ(フローやゾーン)に再び入れるのなら、それもまた一興!ではないだろうか。

 

 

なんにしろ、大抵のことは遊びがベースなのだから、肩に力を入れず(真面目に考えすぎず)にゲーム感覚で楽めばよい。本書のおかげで退屈と感じている作業に遊びの要素を発見することもできるかもしれない。(作業を遊びと再定義!)

 

 

ところで本書をより理解し楽しむためには、もっと教養が必要と感じた。わからない記述が多すぎた。言葉もむずい。こちらもあまり真面目に考えすぎず、楽しんで教養をつけていきたい。(もう少し真面目に、、、と思わなくもないですが。)

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫。

◆概要

【執筆動機】

コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれ、自分で飛べない人間はコンピュータに仕事を奪われる(p.15)という危惧

 

【想定読者】

グライダー人間、教育者

 

【主張】

グライダー兼飛行機のような人間となる(p.15)必要がある。

 

◆本文抜粋

【グライダー】グライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは当たり前であろう。(中略)指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。(pp.13-15)

 

【不幸な逆説】入門をしても、すぐに教えるようなことはしない。むしろ、教えるのを拒む。(中略)いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。(pp.17-18)

 

【朝飯前】どんなことでも、朝飯前にすれば、さっさと片付け。朝の頭はそれだけ能率が良い。(p.24)

 

【醗酵】学生で、ただ作品をコツコツ読んでいるだけと言う勉強家がいるが、これではいつまでたっても、テーマはできない。(中略)これをしばらくそっとしておく必要がある。(pp.31-32)

 

【寝させる】我々の多くは、この朝のひとときをほとんど活用しないでいるのではあるまいか。(p.38)

 

【カクテル】優れた学術論文の多くは(中略)人を酔わせながら、独断に陥らない手堅さを持っている。(p.47)

 

【つんどく法】忘れて良いと思いながら、忘れられなかった知見によって、一人ひとりの知的個性は形成される。(p.95)

 

【整理】人間の頭を倉庫として見れば、危険視される忘却だが、工場として能率を良くしようと思えば、どんどん忘れてやらなくてはいけない。(p.112)

 

【時の試錬】思考の整理とは、いかにうまく忘れるか、である。(p.127)

 

【すてる】本をたくさん読んで、ものは知っているが、ただ、それだけ、と言う人間ができるのは、自分の責任において、本当に面白いものと、一時の興味との区分けをする労を惜しむからである。(p.133)

 

【コンピューター】これまでの知的活動の中心は、記憶と再生にあった。(中略)コンピューターは、我々の頭がかなりコンピューター的であったことを思い知らせた。(pp.210,213)

 

◆参考文献

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫

 

◆所感    グライダー/自覚と模倣

真にすぐれた者が発する輝きを目にして、「ああ、これが本物か」と感じることがある。そのたびに、「対して自分は偽物」であり、本書でいう「グライダー人間」だと自覚する。本書読了後の所感は、「自分は飛行機人間ではない」という前提に立つことの重要性だ。これは、努力の放棄や諦めといった大袈裟な話ではなく、事実を受け入れるというシンプルな話である。

 

日々の生活をしているなかで、過分な実績が出ることがある。その過分な実績が過分に評価され、過分な立ち位置を得ることもある。結果として「分不相応な扱い」つまり、「グライダーなのに飛行機あつかいされる」という状況が生まれる。

 

しかし、現実にはグライダー能力はあるが、飛行機能力はまるでなし、という人間がたくさんいることも確かで、しかも、そういう人も翔べるという評価を受けているのである。(p.13)

 

 

グライダーなのに飛行機扱いされるのはたいへんなことだ。誤魔化し切るラインを見誤ると危険だし、「あれ、僕って実は飛行機?」と錯覚することはもっと危険である。

 

知的、知的と言っていれば、翔んでいるいるように錯覚する。(p.14)

 

「場」と「タイミング」が整っていると、飛行機のふりをすることができる。飛行機に近い軌道で飛ぶことができるし、部分的には飛行機よりも飛行機らしく飛んでいるように見えることもあるかもしれない。けれども、基盤はあくまでもグライダーである。そこの自覚が欠けていると、危ない状況に陥る。著者も飛行機の危なさは指摘している。

 

グライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは当たり前であろう。(p.12)

 

他方で「猿もおだてれば、、、」というように、愁傷な自覚などせずに調子に乗った方がうまくいくこともある。そうした方法もまったく否定しないし、むしろ素晴らしいと思う。何回か墜落したところで致命傷を負うことなど、実際のところほとんどない。

 

グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにも行かない。(中略)この本では、グライダー兼飛行機のような人間となるには、どういうことを心掛ければよいかを考えたい。(p.15)

 

「グライダー兼飛行機/のような」と「グライダー兼/飛行機のような」のどちらを採用するにせよ、高く、楽しく飛べる方法を模索していきたい。

フリードリヒ・ニーチェ(1883-85)『ツァラトゥストラはこう語った』。

◆概要

【執筆動機】

わたしも自らの知恵に飽きた。(中略)贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧弱たちが再びおのれの豊かさに、気づいて喜ぶに至るまで。(p.14)

 

【想定読者】

悩んでいる賢人

万人のための、しかも誰のためでもない、一冊の書(氷上英廣訳、誰でも読めるが、誰にも読めない書物)

 

【超人】

わたしは諸君に超人を教える。(p.18)

すべての神々は死んだ。今われらは、超人が生まれることを願う。(p.133)

 

◆本文抜粋

彼らに何も与えるな。それよりも、彼らが背負っているものを持ってやって、一緒に背負ってやるが良い。それが彼らにとって何よりの親切だ。もっとも、君がそれを望むのならば、だ。それでも与えたいと言うのなら、施しとしてだけで、それ以上は与えるな。しかも、彼らにまず物乞いをさせてからだ(p.16)

 

かつては、魂が肉体を軽蔑の眼差しで見ていた。当時は、このような軽蔑こそが、至高のものとされていた。魂は肉体を、痩せさらばえて、醜く、飢えているものにしようとした。そうすれば、魂は肉体から、そして大地から、うまく逃げおおせると思い込んでいた。(p.19)

 

最も軽蔑すべき人間の時代が来る。もはや自らを軽蔑することができない人間の時代が。(p.26)

 

創造するものは道連れを求める、亡骸ではなく、畜群でも信者でもなく。創造するものはともに創造するものを求める、新たな価値を新たな石版に刻む者たちを。(中略)ツァラトゥストラは共に創造するものを求める。共に収穫し、共に祝うものを求める。(p.36)

 

私は君たちの道を行かない。肉体を軽蔑する者たちよ。私にとって、諸君は超人へと架かる橋ではないのだ。(p.55)

 

諸君の徳のあいだの嫉妬と不信と誹謗は避けられない。(中略)人間とは、乗り越えられるべき何かだ。だからこそ自らの徳を愛さなくてはならない。それらのと徳は、君を破滅させるだろうから。(p.59)

 

山の中で最短の道は、山頂から山頂へ飛ぶ道だ。(p.64)

 

本当に偉大なのは、創造することだ。だが、大衆はほとんどこれを理解しない。(中略)役者にも精神はある。だがその精神には良心がほとんどない。つねに彼が信じるもの、それはもっとも多くの人々を信じさせるためのものだ、、、彼自身を信じさせるものである。(pp.86-87)

 

認識を志す者が、真理の水に入るのを嫌うのは、その真理が汚れている時ではない。その真理が浅い時だ。(p.92)

 

君たちの隣人愛は、君たち自身をうまく愛することができていないということだと。(p.102)

 

君たちに敵があるなら、その悪に対して善で報いるな。それは敵を恥させることになるから。それよりも、敵が諸君に何か良いことをしてくれたのだと、証し立てて見せよ。(p.115)

 

死ぬべき時に死ね。(p.121)

神はひとつの憶測だ。(p.142)

すべての創造者は苛酷である。(p.151)

 

私を捨て、自らを見出せ。そして君たちが皆、私のことなど知らぬと言うようになったときに、私は諸君のところに帰ってくる。(中略)今とは違った愛で、諸君を愛するだろう。(p.132)

 

犬が狼を憎むように民衆が憎むものがある。自由な精神だ。束縛の敵となるもの、崇拝を拒むもの、森に棲む者だ。彼らをその隠れ家から狩り出すことが、民衆がいう正義感だ。(p.173)

 

君たちが打ち立てた様々な価値から育ってくるのは、いっそう強い暴力と新しい克服だ。(中略)最高の悪は最高の善の一部だ。そして最高の善とは、創造的であることだ。(p.198)

 

学者は監視しあっている。お互いをあまり信頼していない。(中略)なぜなら、人間は平等ではないからだ。公正はそう語る。私が欲することを、彼らが欲する事は許されていない。(pp.216-217)

 

君は、偉大なるものへと向かう君の道を行く。君の後にもう道はないと言うことが、君の最高の勇気の源とならねばならない。(中略)もっとも高いものは、もっとも深いものからその高みに達さねばならない。(pp.262.264)

 

彼がかつて何かを証明したことがあるとでも言うのか。彼は証明は苦手で、信じてもらうことが重要なのだ。そうだ、そうだ。信じれば幸福になるが、信じてもらっても幸福になる。老人とはそういうものさ。我々だってそうだ。(p.313)

 

神々はいる。だが唯一の神などいない。それこそが神的なことではないか。(p.314)

 

善人は決して真理を語らない。このような仕方で善良である事は、精神にとって病である。(p.344)

 

善人たちは、創造することができないのだから。彼らは常に終わりの始まりだ。新しい価値を新しい石板に書きつける者を、彼らは十字架にかける。おのれのために未来を犠牲にする。人間の未来すべてを十字架にかけるのだ。善人たち、彼らは常に終わりの始まりだった。(pp.365-366)

 

あなたは、ついに疲れてきたのか。向こうは夕焼けて、羊たちが群れている。羊飼いたちの笛の音を聴きながら眠るのも悪くあるまい。(p.389)

 

だが、私もまた預言者なのだ。(p.414)

 

私は知において良心的であろうとするものです。(中略)多くのことを生半可に知るよりは、何も知らない方が良いではありませんか。他人の判断に従って賢者でいるよりは、自らの力のみ頼りにする阿呆の方が良い。私は底の底まで行ってやろうと思うのです。(pp.424-425)

 

なたはもはや神を信じない、だがそれはあなたの敬虔さ自体のなせる技ではないか。(p.446)

 

昨日の朝、この上に座っていた。ここへ預言者がやってきた。(p.562)

 

◆吉澤伝三郎(1967)より

ハイデガーの指摘

この書が述べるところは、各人に、万人に向けられている。しかし、何人も、まさにあるがままの自分である限り、つまりあらかじめ、そして同時に変化しない限り、誠にこの書を読む権利を決して持たない。すなわち、この書は、まさにあるがままの私たち万人のうちの何人のための書でもないのである。万人のための、そして何人の人のためのものでもない一冊の書、したがって、決して直接的に読まれることのできない、また許されない書なのである。(p.12)

 

実存哲学は第一次大戦期の危機意識を基盤として成立した。現代の危機を、現代の現実的状況へ沈潜することを通じて超克しようとするところに、総じて実存哲学の基本的姿勢がある。その意味で、実存哲学は一つの徹底的な現実主義の哲学である。しかも、現実に対して否定的な姿勢をとるところに、実存哲学における現実主義の特性がある。(p.156)

 

著作における永遠回帰思想の提示の仕方は、要するに実存論的、いや実存的ですらあるのである。すなわち、ツァラトゥストラ自身がまずこの思想を告知シュールものにまで成熟することが先決問題であると言う立場が貫かれているのである。(p.163)

 

 

 

◆参考文献

Friedrich Wilhelm Nietzsche(1883-85) "Also sprach Zarathustra" (佐々木中 訳(2015)『ツァラトゥストラはこう語った河出書房新社。)

吉澤伝三郎(1967)『ツァラトゥストラ入門』塙新書

 

◆所感

初読。たまにメモしたくなることが書いてあるが、大半が解釈困難な長い本。読む人の心理状態によってどのような本か変わる。主要な教訓やメッセージも変わる。多分そんな本。

 

 

自己啓発、恋愛、結婚、友情、宗教観、死生観など多岐のテーマに対応している。抽象度の高さから、長い年月を経ても普遍性が失われず示唆に富む。「背中を押してくれる、前向きになれる」とも読める一方で「世の中アホだらけで困るわ、、」的な感じもある。

 

 

超訳や漫画もたくさんあるようなので、今回の読書をきっかけにパラ見してみよう。

 

〇MEMO

ニーチェ公式の解説書的位置付、論文

道徳の系譜』(1887年)

ヤスパースによるニーチェ宗教観解説

ニーチェキリスト教』 (1965年)

鈴木大拙(1960)『禅の思想』岩波文庫。

◆概要

【執筆動機】

人間は思想なしに生きて居れぬのであるから、禅にも何か自らを道取する方法がなくてはならぬ。それが禅問答である。本書はこのようなわけで、知、行、問答の順番で編まれたのである。(p.6)

 

【中点】

実際最初に書かれたのは「行篇」である。それは行即ち生活が禅の主体なので、自ら筆はそこから染め始められた、而して本書の中点もそこにおかれてある。(p.6)

 

◆本文抜粋

【禅の思想】一言で云うと、禅の思想は、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別、相非の相即、事事無礙、万法如如など云う成語・成句で表栓せられる。禅の行為は、無功用の功用、無行の行、無用の用、無作の作、無求の求などと説明せられる。禅について、何か叙述したり、説明したりしようと思うと、いつも逆説的文字をもちいることになる。(p.19)

 

【無心と慧眼】心に即して無心なるが、仏道に通達すると云うことである。物に即してあれこれと云う己見を起さざるを、道に達すると名づける。向こうから来る物に対して、直きに達してその本源を知りぬくような人があれば、その人の慧眼の目は開けて居るのである。(p.43)

 

【可能・不可能】経験事実のうえから云うと、可能・不可能は論理的仮説の問題だとみてよい。事実のうえでは、そうだからそうだと云うだけのことで、話はすむわけである。禅者の立場からは、それは無縄自縛に過ぎない。しかし哲学者はそれでは承知せず、一般の吾等ももっとはっきりと云ってほしいと云うであろう。(p.50)

 

【真理/全面と一面】もし禅が単なる虚無主義、汎神論的神秘主義であって、それ以外の何物でもないと云うことになったら、何もそんなにやかましく「禅」「禅」と言うには及ばぬのである。少しわかった仏教者と思われるものさえ、禅についての徹底した了解がないので、甚だ情けなくなる。(p.73)

 

【至道無難】至道は無難である、何でもないものじゃ。が、ただ嫌いたいのはけんじゃくで、良いとか悪いとか云う分別、即ちはからいである。これがいけない。(p.74)

 

【無功徳】無功用、または無用、または無功徳は禅の行為的原理である。(中略)不識が禅の思想または哲学であり、無功徳が禅の倫理であり、宗教であると云ってよい。不識の論理は無知の知、無分別の分別である。(p.153)

 

【矛盾】個と超個とは矛盾するようにできている。この矛盾は脱却せられぬもの、解消せられぬものである。矛盾を矛盾としてそのままに受け入れることが脱却であり、解消である。般若の論理はそれを即非と云う。(p.156)

memo.芝居は矛盾をそのまま舞台の上に載せた

 

【常識】わざわざ常識外れのことを云いたいと云うわけではない。その常識のなるものが始めから自分の外に何もないと決めたのがいけないのである。それで自分自身も却ってその根底からひっくり返されて、今更びっくりすると言うことになる。常識と云うは分別に他ならないのである。禅者から見ると、山が動くと云うも、山が動かないと云うも、どちらでも良いのである。それじゃ無茶苦茶で、何も話にならぬと云われるに決まっているが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。ここが肝心なので、これを把握しなければならぬのである。(p.257)

 

◆所感

理解できない記述は、自分の教養不足を完全に棚上げして早々に諦めることにしている。その観点でいうと、本書は諦める回数を数える仕事に困らなかった。少し考えればわかりそう、という手応えめいたものも少なく、普段にも増して文字を流し読みしてしまった。「わからなかったが一応目を通した本シリーズ」の仲間入り。

 

従前に、この本は難解という噂を聞いていたが、なるほどと納得した。しかも、どうやら知識を増やせば理解できるという類の難解さでもなさそうである。そもそもの知識不足ゆえ、分かったつもりになる余地が無かったのはかえってよかったのかもしれない。

 

さてしかし、読んで分からぬでは話にならぬと云うことであるが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。

 

それじゃ無茶苦茶で、何も話にならぬと云われるに決まっているが、禅者はそうではなくて、その話にならぬと云うところに、かえって話になるものを見ているのである。(p.257)

 

*この構文は使いどころが多そう

 

◆追記メモ2022.5.4

自己肯定と自己肯定

自己否定も自己肯定も過ぎるとよくない、では中間がいいのか、とか肯定と否定の往復がいいのか、というとそうでもない。

 

極端な考えを異端と決めつける考え方もまた極端である。換言すると、中間がいい、と中間のみを良しとする考えは極端である。

 

なるほど、では答えもなさそうなので考える必要はないのか、というとそうでもない。それでは話にならぬと云うのであるが禅者は(略

サン・テグジュペリ(1943)『星の王子様』。

◆本文抜粋

【恥と酒】「何を恥じているの?」救ってあげたいと思って、王子様はたずねた。「飲むことを恥じている!」酒びたりの男はそう言うと、沈黙の中に、完全に閉じこもった。(p.64)

 

【難しい仕事】「管理する。数を数え、また数え直す」と実業家。「難しい仕事だ。でも私は、有能な人間だからな!」(p.69)

 

【美しさ】「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね……」(p.115)「砂漠が美しいのは」王子様が言った。「どこかに井戸を、一つ隠しているからだね……」(p.116)

 

◆所感    専門職の悲哀/酒と恥と自信

世の中には、意義の有無が明確でないが、「とにかく複雑」というタイプの仕事がある。仕事の複雑さ、使用している知識の難解さは、人の感覚を麻痺させることもある。本書に出てくる実業家はその特徴をよく示している。「専門的な知識を使って難しい仕事をしている。毎日とても忙しい。だから僕は有能ですごいんだ。」という自信にあふれる姿である。

 

一方、現実はこれに比べて麻痺の度合いが少ないことも珍しくない。「自分は専門的な知識を使って仕事をしているけど、意義はそれほど無いと薄々感じている。でもそんなことを考えても仕方ないし、生活もあるし、お金も必要、、。それに、”下”を見れば知識を使わない仕事をしている人もいる。それに比べたら自分はずいぶん”まし”だ。めったに無いけど感謝されることもある。さて明日も頑張ろう。」こんな感じではないか。

 

専門職に従事している人の中には、こうした悲哀を胸にそっとしまいながら日常に折り合いをつける人もいる。いっそ、自分を騙して「ガハハ系おじさん」にジョブチェンジ出来たらどんなに楽だろうと思うこともあるが、「それはやはり嫌だな」と思いとどまったりもする。そこについて、あまり思い詰めてしまうと、待っているのは「酒びたりの日々」かもしれない。

 

おそらく、自信過剰な実業家はいくらか「恥」を感じることが必要で、一方、恥のあまり酒びたりの人は適度な「自信」を持つとよい。でも、それが難しい。そうは出来なくなる過程が「大人になる」ということにほかならないためだ。本書の真価のひとつは、そうした「理解はできるが、変容しがたいものの尊さ」を率直に示していることと思われる。大人になってしまったことは仕方ないとして、心のどこかに「花」もしくは「井戸」をしのばせておきたいと思った。

 

 

「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね……」(p.115)「砂漠が美しいのは」王子様が言った。「どこかに井戸を、一つ隠しているからだね……」(p.116)

 

◆参考文献

サン・テグジュペリ(1943)『星の王子様』新潮文庫。(河野万里子 訳)

ポール・ギャリコ『猫語の教科書』ちくま文庫。

◆概要

【執筆動機】

人間の家を乗っ取って、飼い猫になろうと決心(中略)私の話をきいた猫たちはひどく感心して、ぜひそれを書き留めておくようにとすすめてくれました。(p.24)

 

【想定読者】

(なるべく高級な)人間の家を乗っ取りたい猫(p.24)

 

◆本文抜粋

【独身男】独り者の男性には、奇人、変人の類も多いのです。この手の人たちは、穏やかな家庭を営みたい猫にとっては、ふさわしいとはいえません。それに独身男たちは、大体において、猫より犬を好む者です。なぜって、おだててくれる妻がいないものだから、犬に代わりを務めさせたいのね。(p.58)

 

【愚かさ】人間はほんの少しの良いところを覗くと、愚かだし、虚栄心は強いし、強情の上に忘れっぽく、ときにはずるくて不誠実でさえあります。平気で嘘をついたり、表と裏があったり、破ると分かっている約束をしたりもします。わがままで、欲張りで、考えが浅く、所有欲が強いくせに気まぐれで、臆病で、嫉妬ぶかく、無責任で、独りよがりで、橋梁で、忍耐心にかけ、偽善的で、だらしない。(p.157)

 

◆参考文献・引用元

Paul Gallico, (1985) "Silent Miaow" Three Rivers Press(灰島かり訳(1995)『猫語の教科書』ちくま文庫。)

 

◆所感    異なる価値観との同居/理解は時に不要

本書は猫の理解という【具体】を通じて、「本質的には理解できない家族との同居態度」という【抽象】を示していると感じた。傾向はとらえつつ、理解する必要は無い。理解していなくてもお互い楽しく過ごすことが肝要である。以下に自分の奥さんを例示して考えを整理する。

 

 

僕の奥さんはIT技術者である。大学四年生のころ受験したすべての公務員試験で面接落ちし、緊急的に就職活動を行い晴れてブラック企業のSEとなった。休みと給与は少なかったが、特に不満を感じている様子はなく、職場で推奨されている資格試験をいくつか取得しながら仕事に慣れていっているように見受けられた。そんな彼女が突然「仕事を辞めたい」と言い出した。就職してから7年、結婚してから3年が経過した頃である。

 

理由を聞いてみると「いくらなんでも給与が低すぎる」ことが今更気になったとのこと。僕としては7年間も勤めた末の退職理由としてはいささかインパクトに欠けると感じざるを得なかったが、特段止める理由も無かったので「そうか」とか「なるほど」などと相槌をうった。(たしか、鳥貴族かそれに近い居酒屋で聞いた気がする)

 

その日を境に、彼女はもう少し条件が「まし」な会社への転職活動を開始し、拍子抜けするほどあっさりと内定を得ることに成功する。年収はおよそ倍で、有給消化率がとても高い会社だ。それがおよそ5年前の話である。しかし彼女はその後、有給をほとんど取得せず、生活は質素なまま今に至る。週末はたいていケンタッキーかマクドナルドで資格試験の勉強をし、夜たまに一緒にする外食は未だに鳥貴族かそれに近い居酒屋だったりする。

 

平日の夜は部屋でストロングゼロを飲みながら小説か漫画を読んで過ごしており、時々「週に5日は働きすぎ」と漏らす。そのわりに有給は使わない。出世欲は無い。週末の資格試験の勉強はたんたんと継続しており、高度情報処理技術者試験の9区分のうち6つをパスしている。ただし、これらの資格は仕事に直接関係がない。転職活動で有利にもならない。つまり、取得する理由が客観的には見当たらない。

 

以上のように、彼女の行動には僕の論理に適合しやすい原理原則が無い。そのことについてはずっと気になっているし、何度か質問をしたが説明を聞いてもよくわからなかった。ストイックにも自堕落にも、退屈にも充実にも見ることができるライフスタイルだが、一様に楽しそうである。

 

結局、異なる価値観は(奥さんですら)よく理解できない。理解できないものは、そのままにしておいてよい。理解しようとして疲れたり、理解したつもりになることは、たぶん奥さんも(そして猫も)望んではいない。本書を通じて以上を再認識した。

孫武(前5C)『孫子』

◆概要

12年ほど前、ソフトバンクアカデミアの開講式で孫正義氏が「孫の二乗の兵法」という講題でスピーチをされた。以下はそのメモ(走り書き)である。動画リンク後述。

 

◆講演全体像

◆個別解説

 

道 ・・・ 理念、志

デジタル情報革命で人々を幸せにする

 

天 ・・・ 天の時、タイミング

情報のビッグバンという絶好のタイミング

農業革命、工業革命、情報革命

 

地 ・・・ 地の利

インターネット人口はアジアが50%に

 

将 ・・・ 優れた将を得る

大将としての器を得る

大将になる為には、志を共有する将が10人必要

 

法 ・・・ システム、方法論、仕組み、ルール作り

まぐれ当たりで得た果実は継続性が無い

物事をシステマティックに考える

頂 ・・・ 頂上、頂上から見渡した景色を登る前に想像する

自分が登るべき山を決める、決めると人生は半分決まる(勝利が半分決まる)

10年後、20年後、30年後と明確な期限を決めイメージを徹底的に思い描く

ビジョンは2-3日考えて浮かぶようなものではない

普段からちぎれるほど考え抜くことが必要

 

情 ・・・ 情報を収集し、徹底的に分析する

「これだ、これをやれば絶対に日本で一番になれる」

行き当たりばったり、たまたまの経緯で決めたではダメ

 

略 ・・・ ビジョンを達成するためにどのような戦略を立てるか

頂上を見てビジョンを立てる、情報を集めてビジョンを立てる、ビジョン実現のために戦略がある

略する、絞り込まれたものでないと戦略ではない

 

七 ・・・ 三割以上のリスクは冒さない、七割以上勝つという絶対的確信を持てる場合勝負する

「絶対に行ける7割」が大切、いい加減はダメ

五分五分で挑むのはバカがやること

ケチな奴ほど失ったものを取り戻そうとして会社をつぶす無能

意地でやるやつはバカ、退却できないやつはバカ

三割以上の損失が発生しそうな時は迷わず瞬間芸でスパーンと切る

九割の確率になるまで待つと手遅れ

 

闘 ・・・ 七割以上勝算があるという事業を絶対にやり抜く

闘って初めて事を成す→実行することが重要

闘って、闘って、闘い抜いて、人々を幸せにするという理念を実現させる

闘い=ビジョン、高い志を実現させるためには多少の迷惑もやむをえない場合もある

 

一 ・・・ 圧倒的ナンバーワンでないと利益が創出されにくい

プラットフォームを作る、業界標準デファクトスタンダードを作る

勝てる戦いしかしない、戦えば必ず勝つ、その分野で圧倒的ナンバーワンになる

一番を取り、負け癖を勝ち癖に変える。一番でないと気持ちが悪いと思えるようにする

二番は敗北だと思え。二番でちょっと喜ぶなどその時点で失格。

一番になればそこからゆとりが生まれて、より責任を持った事業が出来る

 

流 ・・・ 時代の流れには絶対逆らってはいけない

沈みゆく産業に人生を掛けるなんてバカだ

ニッチを狙え、というコンサルタントはバカ。

ニッチを選択して勝つのではなく、本流となる分野を選びマーケットが小さくとも投資する

一時的にその部分が半年くらい優れているとか、そんな隅っこの話をしても全く意味が無い

将来メインになるところで戦うのが怖くて、勝てる自信が無くてニッチを狙うのは負け犬

安いから買う、組みやすいから組むではだめ。将来のメインストリームをみすえる

 

攻 ・・・ 攻撃は最大の防御、技術に詳しく、営業も天下一品、交渉させても説得力がある

強く、深い洞察力を持ち、常に攻撃力を磨かなくてはいけない

 

守 ・・・ 資金繰り、経営管理、撤退、コンプライアンス、報道リスク

田沼意次田中角栄など清濁併せのむ系は後世評価されない

天下りを受け入れるのは法律違反ではないが人的賄賂にほかならない。

そういった意味でも、「守り」は真剣に考えなくてはならない

 

群 ・・・ 30年以内に5,000社の同志的結合集団を作る、戦略的シナジーグループ

自立していて、分散していて、協調する組織をつくる

シングルブランド、シングルビジネスモデルの危うさをヘッジ

 

智 ・・・ 思考力、グローバル交渉力、プレゼン能力、テクノロジーファイナンス、理解力

どれもその分野の専門家と一番深いレベルの議論が出来る能力が必要

「頼る」と「使いこなす」は違う。最高の専門家を使いこなす素養を身につける

 

信 ・・・ 信義、信念、信用を持っていないと同志的結合を集められない。

裏切られる気がする、という疑念のもとで5,000社は集めきれない。

 

仁 ・・・ 仁愛敬徳、仁義ではなくて仁愛

人々の幸せの為、という仁愛の精神。

 

勇 ・・・ 大きな敵と戦う勇気、撤退の勇気

退却の勇気が無いリーダーは失格。退却は進行の10倍難しい

退却の決断はトップしかできない

退却する時は自分がすべて泥をかぶるくらいの覚悟が必要

 

厳 ・・・ 泣いて馬謖を切るということ

深い仁愛があってはじめて出来ること

 

風 ・・・ 疾(と)きこと風の如く

移動するときは風のように速く

 

林 ・・・ 徐(しず)かなること林の如し

林のように静かに、敵の近くでも見破られないように

 

火 ・・・ 侵掠(しんりゃく:おかしかすめる)すること火の如く

攻撃するときは火のように勢いに乗じて

 

(陰) ・・・ 知りがたきこと陰の如く

どのような動きに出るか判らない雰囲気は陰のように

 

山 ・・・ 動かざること山の如し

敵の奇策、陽動戦術に惑わされず陣形を崩さない、まさに山のように

 

(雷) ・・・ 動くこと雷霆(らいてい)の如し

攻撃の発端は敵の無策、想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら実行されるべき

 

海 ・・・ 戦いに勝った相手を包み込むこと

海のようにすべてを飲み込んだ平和な状態まで持っていって初めて戦いは完結する

 

 

 

◆書籍より抜粋

【守→攻】昔の戦いに巧みであった人は、まず誰にも打ち勝つことのできない体制を整えた上で、敵が誰でも打ち勝てるような体制になるのを待った。(p.56)

 

【勝算を整える】勝利の軍はまず勝利を得てそれから戦争しようとすれば、敗軍はまず戦争始めてから後で処理を求めるものである。(p.59)

 

【予兆】敵の群子の言葉つきがへりくだっていて守備を増強しているようなのは、進撃の準備である。言葉つきが強行で進行してくるようなのは、退却の準備である。(p.122)

 

藤崎竜田中芳樹原著『銀河英雄伝説』より

 

◆参考文献・引用元・動画

孫武(前5C)『孫子』(金谷治 訳(2000)『新訂 孫子岩波文庫。)

ソフトバンクアカデミア開校式(9分-講義)

https://group.softbank/news/webcast/792895473001

 

◆所感、追記予定

兵法書であり、経営戦略指南書であり、人生訓示書の側面もある世紀のベストセラー。解釈に多義性はそれほど無いわりには、本書を愛読して失敗する経営者やリーダーは少なくない。継続的な理解深化が必要である。